いささかの愛惜を断ち焚(た)き捨つる
万葉代匠記(だいしょうき)の炎よ赤し
故山中貞則先生が総攻撃前夜の陣中で詠んだ歌は「昭和万葉集」に採用されている。その戦争に負けて復興と再建を使命と決めて立ち上がった政治家の一人だった。戦争の惨禍をくぐり戦友の死に誓っているから信念は強く激しかった。修羅場を経験した人は心優しい。弱者への配慮が政治だという気持ちも堅かった。沖縄本土復帰の恩人、環境行政の創始者、独禁法の番人。
その人が昭和57年11月通産大臣に就任して、秘書官を命じられた。大企業を擁護し、中小企業に冷淡で、欧米に頭のあがらない通産省を叩(たた)き直すというくらいの意気込みで乗り込んだのだと思う。大小あらゆる案件についてまず「ノー」から始まり、徹底的に説明させられた。通商関係の決裁がどうしても取れずに弘報が半分白紙で出されたこともあった。政策の勉強には熱心な人だったし、通産省もひるまず議論する気風だったから、大臣室で度々火花の散るようなやりとりがあった。激しい議論の中で信頼関係と一体感が出来てきたと思う。通産大臣を辞任した後も多くの官僚が「大臣」と慕って押しかけて胸を借りるようにして政策を議論していた。
当時は貿易摩擦の激しい頃で、ECの代表団が来日して交渉した際、とうとう話がつかず「予定の晩餐(ばんさん)会は取りやめ」と言って近代戦にはめずらしい兵糧攻めに出たこともあった。(もちろん大臣の命により通産審議官が代わって接待したが)
薩摩隼人。己に厳しく対面を重んじ、正眼の構えに徹していた。「引退したら郷里で万葉集三昧(ざんまい)だ」と楽しみにしておられた。
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