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“すべって ころんで おおいたけん”とは、よく耳にする言葉である。大分県を認知してもらうには便利なフレーズかもしれない。もちろんこれは単なる語呂合わせで、地名の由来では決してない。
『古事記』によると、九州は6世紀前後には筑紫国・豊国(とよくに)・肥国・熊襲(くまそ)国に四分割されていたという。豊国は景行(けいこう)天皇が九州で最初に上陸した場所であり、ここを九州服属の前進基地として九州巡行を始めた。豊国という呼び名は、九州の中では大和政権との結び付きが強かったこの地域に与えられた、中央からの美称であろう。
やがて豊国は、豊前と豊後に分かれる。大分県は豊前2郡(下毛、宇佐)と豊後8郡(国東、速見、大分、海部、大野、直入、玖珠、日田)からなっている。ここから“豊(とよ)の国”と呼ばれたとされる。
おおいたの名の由来は、8世紀前半に当時の政府が地方の状態を知るために編集した『豊後国風土記』にさかのぼる。それによると、“おおいた”について景行天皇に由来を求めている。天皇がこの地を訪れた時、「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田(おおきた)国と名づくべし」と述べたとあり、これがのちに“大分”と書かれるようになったという。しかし、実際の大分平野は広大とは言いがたく、地形はむしろ複雑であり、したがって“多き田”が“大分”になったとの見解が、最近の定説とされている。
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慶応4年(1868)、宇佐市で起こった*御許山(おもとさん)騒動で、西国(さいごく)郡代・窪田治部右衛門(くぼたじぶうえもん)が逃亡した。明治維新の政権は、その跡地を直轄地・日田県とした。やがて諸藩も新政権に帰順し、旧藩主は明治4年(1871)の廃藩置県で東京に移住し、全国に3府302県を置いた。
同年、政府は中央集権化を推進するため、大幅な府県改廃の事業を進めた。豊後国は大分県に、豊前国が小倉県になった。西海道(九州地方)には、小倉県以下、11県がいっせいに設置された。こうして豊後一国を県域とした大分県が成立した。
初代大分県長官に任命されたのは、旧岡山県権大参事、森下景端(かげなお/1824〜91)。中央集権をめざす政府は、原則的に各府県の長官に、その県出身者を任命しなかった。森下は戊辰戦争で、岡山藩農兵隊長として東海道から奥州まで転戦した武人であった。
明治9年は2度にわたって県の統廃合が行われた。小倉県は福岡県と合併し、さらに4カ月後、下毛・宇佐両郡が大分県に編入された。豊後八郡(八大区)に加えて、下毛郡を九大区、宇佐郡を十大区とし、今日の大分県域が確定した。
その後、「明治の大合併」や「昭和の大合併」、そして平成18年3月に完了した「平成の大合併」を経て、現在大分県は、18市町村(14市3町1村)からなる。
(写真/初代県令 森下景端)
*御許山(おもとさん)騒動…豊前、豊後の志士によって起こされた倒幕事件
協力/大分県先哲史料館
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▲大分県管内地図
(大分県立大分図書館蔵)
【市町村数の変遷】

※豊後のみの町村数
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江戸時代、大分県域は多くの藩や領に分けられていた。一番大きい石高の中津藩が10万石。ほかに杵築藩、日出藩、府内藩、臼杵藩、佐伯藩、岡藩、森藩の8藩、加えて熊本・島原・延岡藩の飛び地が入り乱れる小藩分立の時代であった。日田には九州内の天領(幕府領)支配のため、幕府の代官所がおかれた。日田の豆田・隈両町の商人たちは代官所と結びつき、“日田金”と称される金融業によって、天下に知られることとなった。
小藩分立は、度量の狭い県民性の源、との見解もあるが、逆に、枠にとらわれない、自主自立、創意工夫に満ちた個性的な人材を生み出すとの考え方も成立する。日本の近代・現代は中央集権であり、地方の役割は、中央への奉仕や、人材の養成が主なものであった。大分でも、文化人、官僚、経済人として中央で活躍する人を輩出する「人材育成県」としての役割を果たしてきた。そんな時代を経て今、「地方の時代」と言われている。
中央から地方へ、権限や財源も移そうという動きが始まっている。まだ期待通りのものが地方に譲渡されているわけではないが、大切なことは、地方が自主自立のための受け皿をつくっていかなければならないということだ。
平成17年(2005)、多くの県民が議論し、県の新しい長期総合計画「安心・活力・発展プラン2005」が作成された。
1 安心して心豊かに暮らせる大分県
2 知恵と努力が報われる活力ある大分県
3 人材あふれる発展の大分県
この3つを目標に掲げ、積極的に事業を展開し、新しい大分県づくりを進めている。
企業誘致などの成果により、平成15年度の都道府県別経済成長率は全国1位。県民1人当たりの所得も福岡県を抜いて九州1位、雇用の有効求人倍率も九州1位を続けている。今後は行財政改革をさらに進め、地方の時代をリードする存在になりたいと願っている。
16世紀、大友宗麟の時代、西洋文化を取り入れた府内は、国際都市としてにぎわっていた。江戸時代には臼杵市に漂着したオランダ商船リーフデ号を暖かく迎え入れた。そして現代、立命館アジア太平洋大学(APU)の開学後、多くの外国人留学生が大分で学んでいる。その昔、藩の枠にとらわれず異国との交流を進めてきた大分の人たちの進取の気風と豊かな発想力は、今後も魅力的な大分県を作っていくことであろう。
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▲小藩分立図
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