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■ キリシタン大名
16世紀半ば、諸外国との交流が盛んな国際都市であった府内(大分)の地を支配していたのは大友氏で、21代宗麟(そうりん/1530〜87)は、宣教師フランシスコ・ザビエルを府内に招き、以後キリスト教を保護奨励し、積極的に西洋文化を取り入れた。宗麟は洗礼を受けた後、ドン・フランシスコと称し、キリスト教王国を夢見るが、志ならず津久見で没する。
豊後でのキリスト教浸透を裏付ける人物に、ペトロ・カスイ・岐部(きべ/1587〜1639)がいる。エルサレムを経てローマに赴き司祭になるが、禁教下の日本に戻り捕らわれ、殉教。生誕地の国見では、毎年ペトロ岐部祭が行われている。(写真/大友宗麟)
■ 福澤諭吉(ふくざわゆきち)
一万円札の顔、福澤諭吉(1834〜1901)は中津藩で育った。蘭学を学ぶため19歳で長崎に遊学し、その後大阪の緒方洪庵の適塾でさらに蘭学を深める。25歳の時、江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾(慶応大学の起源)を開くが、翌年英学に転向する。
幕末には、幕府の使節に随行して3回欧米に渡り、世界に視野を広め、欧米での見聞をもとに『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなる。
明治維新後は新政府からの招きを断り在野で活躍。慶応義塾での教育や『学問のすゝめ』『文明論之概略』などの著書による啓蒙活動を行い、個人や国家の独立を国民に訴えた。
(写真/福澤諭吉)
三浦梅園(みうらばいえん/1723〜89)は生涯のほとんどを生地富永村(国東市)で過ごし医業のかたわら塾生を教え、独自の条理学を確立。梅園三語とよばれる『玄語』『贅語』『敢語』など、著作も多い。
梅園の門弟・脇蘭室(わきらんしつ)に学んだ帆足万里(ほあしばんり/1778〜1852)は、儒学のみならず自然科学、医学等にも才能を発揮、ほぼ独学で蘭語を習得し、蘭書を参考に、当時としては最高水準の西洋自然科学書『窮理通(きゅうりつう)』八巻を著した。
儒学者で漢詩人・教育者である広瀬淡窓(ひろせたんそう/1782〜1856)は、日田の掛屋に生まれるが病弱であったため弟が跡を継ぎ、学問に専念。咸宜園を開き、全国から塾生が集まった。この三人は豊後三賢と呼ばれている。
中津藩医・前野良沢(まえのりょうたく/1723〜1803)は、長崎で入手した解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白(すぎたげんぱく)らと翻訳。訳後、玄白は『解体新書』と題して出版するが、完全な訳を望んだ良沢は訳者として名を出すことを拒んだという。
芸術面では、日本南画の最高峰・田能村竹田(たのむらちくでん/1777〜1835)、作曲家・瀧廉太郎(たきれんたろう/1879〜1903)、彫刻の朝倉文夫(あさくらふみお/1883〜1964)、日本画の福田平八郎(ふくだへいはちろう/1892〜1974)、洋画の宇治山哲平(うじやまてっぺい/1910〜86)、文学では野上弥生子(のがみやえこ/1885〜1985)、スポーツでは69連勝の名横綱双葉山定次(ふたばやまさだじ/1912〜68)、政財界では重光葵(しげみつまもる/1887〜1957)、井上準之助(いのうえじゅんのすけ/1869〜1933)など、多くの著名人を輩出している。
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