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明治時代というと、みなさんはどんなものを思いうかべますか?
馬車、日本髪(がみ)の女の人、はだしの子どもたち?
でも、明治20年ごろ、久留島武彦(くるしまたけひこ)が入学した大分中学(いまの上野丘高校)には、アメリカ人のウエンライト先生がいて、生徒たちに英語を教えていました。そして「人の心をやしなう人になりなさい」など、生徒たちに将来(しょうらい)の大きなゆめを描(えが)かせていたのです。いまより、すすんでいるところもあったのですね。おかげで久留島武彦(くるしまたけひこ)は英語が大好きになりました。
背(せ)は高いけれど、力が弱くて、鉄棒(てつぼう)にぶら下がったまま逆(さか)さ上がりができない。中学時代の武彦(たけひこ)についたアダ名は”うどんの化(ば)け物(もの)“でした。自分は体が弱いから兵隊にはとられないだろうと思っていたら、なんとクジ引きで合格(ごうかく)。軍隊にはいったら、いじめられて、もしかしたら死ぬかもしれないと、武彦(たけひこ)は一人で泣きました。
ところが軍隊に入ると、英語ができるので、戦地に取材にきていたニューヨークヘラルド新聞の記者の通訳(つうやく)にさせられました。鉄砲(てっぽう)をうたなくてすんだのです。おまけに、戦地のようすを書いた記事が雑誌(ざっし)の『少年世界』に連載(れんさい)されて、作家になるきっかけができたのでした。不幸なできごと、と思っていると、あとでラッキーがくるということを武彦(たけひこ)は体験しました。 |

武彦(たけひこ)の書いた本。 |
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30歳(さい)代の武彦(たけひこ)は、「自分はどんな仕事をして生きようか」と、生きる道をさがしつづけていました。アメリカへ行けば、これだと思える仕事があるかもしれない。奥(おく)さんを日本にのこして、一人でアメリカへ行ったけれど、仕事もみつからず、もって行ったお金はへって、日本へ帰るお金もない。
すっかりおちこんでホテルの部屋にいたとき、しりあいの旅行社の老人がたずねてきました。そのアメリカの老人はこう言いました。
「人間は三つの力をもっている。一つは金の力。これは、きみにも私にもない。二つめは、地位や身分の力。これも、きみや私はもっていないね。しかし、三つめの力は、きみも私ももっているんだ」
それはなんですか?と武彦(たけひこ)がたずねると、老人は「考えだ」と答えました。
「考えはね、ダメだと思ったらダメなことばかり教えてくれる。ところが、なんとかなるだろうと思ったら、なんとかなることを教えてくれる。考えは、自分がつくるものだ。あかるい方へ、あかるい方へ考えて、なんとかなると信じたら、かならず方法がみつかるんだよ。じつは、これほど力のつよいものはないのさ」
武彦(たけひこ)は老人の教えどおり、なんとかなる、なんとかしようと考えはじめました。部屋からでて、いろんな人にもあいました。すると、よい話し合いもできたし、日本へ帰るお金もうまれたのです。
日本へ帰った武彦(たけひこ)は『考えは力なり』という言葉を標語にして、人びとをはげましました。そして幼稚園(ようちえん)をつくったりして子どもたちの教育を一生の仕事にしたのです。 |
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みなさんのなかにはボーイスカウトやガールスカウトに入っている人がいるかもしれません。日本にはじめてボーイスカウトをつくったのは、久留島武彦(くるしまたけひこ)なんですよ。
大正13年(1924年)、デンマークでボーイスカウトの第2回世界ジャンボリーがひらかれました。デンマークはアンデルセンのふるさとですから、武彦(たけひこ)はオーデンセの町をおとずれてアンデルセンの記念像(ぞう)をしみじみながめました。そこへやってきたのが、地元の新聞記者。武彦(たけひこ)は「世界的な童話作家のふるさとに記念館がないのはざんねんです」と語りました。翌日の新聞のトップが『日本のアンデルセン、クルシマが語る』。この記事によって、久留島武彦(くるしまたけひこ)は日本のアンデルセンとよばれるようになったのでした。
久留島武彦(くるしまたけひこ)はデンマークに行った翌年(よくねん)、アンデルセンがなくなって50年になる記念に、東京の帝国劇場(ていこくげきじょう)をかりきって”アンデルセン50年祭“をひらきました。このことがオーデンセにもつたわり、アンデルセン記念館ができたのです。
久留島武彦(くるしまたけひこ)は1960年(昭和35年)に86歳(さい)でなくなるまで、日本じゅうをまわって子どもたちに童話をきかせました。玖珠(くす)町や宇佐(うさ)市や大分市、そのほか大分県各地で久留島武彦(くるしまたけひこ)の童話の会がひらかれています。みなさんのおじいさんやおばあさんのなかには、久留島武彦(くるしまたけひこ)に会った人がいるかもしれませんよ。 |

正直で、強く、正しい桃太郎は
武彦(たけひこ)の理想の子どもだった。
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昭和29年到津(いとうづ)遊園の林間学園で。
(80歳(さい))
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写真提供:極東印刷紙工 BAHAN 「子どもたちに捧げた半生」より |
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