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郷土の歴史や文化を知ろう…大友宗麟
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大友宗麟 おおいたの昔 郷土の歴史や文化を知ろう 巻ノ六 大友宗麟本名は義鎭(1530年生まれ〜1587年死去) 宗麟が治めた国は? 大友宗麟は、6つの国の守護大名になりました。 いまでいえば、大分県を中心に、長崎県、熊本県、福岡県におよぶ広い地域でした。 
大友宗麟ってどんな人? 日本ではじめてポルトガル国王に手紙をだした人。 日本ではじめて外科手術のできる病院をたてさせた人。 大分で鉄砲をつくらせた人。
蹴まりの名人だった

 蹴(け)まりというのは、鹿(しか)の皮でつくったボールを、落とさないようにみんなで蹴(け)りつづけるスポーツです。相手からうけたボールを落とさないで蹴(け)るには、集中力が必要でした。大友宗麟(おおともそうりん)はこのスポーツの名人でした。


勉強熱心だった
 宗麟(そうりん)は熱心に勉強する人でした。仏教(ぶっきょう)についても勉強し、キリスト教についても勉強して、お坊さんや宣教師(せんきょうし)と語りあいました。

キリスト教をゆるした
 宗麟(そうりん)はキリスト教のおしえがすばらしいと思い、宣教師(せんきょうし)たちがキリスト教をひろめることをゆるしました。
フランシスコ・ザビエル像 フランシスコ・ザビエル像(ぞう)
(早川 和 画)

病気の人をたすけた
 戦国時代の日本では、お金のない人が病気になってもだれもたすけてくれませんでした。宗麟(そうりん)はキリスト教の病院を府内(ふない)(大分市)にたてさて、お金がない人も治療(ちりょう)をうけられるようにしました。その病院では、大分のキリシタンの人たちが病人の看病(かんびょう)をしました。
府内病院全景の模型の写真
府内(ふない)病院全景の模型(もけい)(大分市医師会立アルメイダ病院蔵)
あたらしい産業

 刀や弓矢でたたかっていた時代に、宗麟(そうりん)はポルトガルから大砲(たいほう)をおくってもらったり、鉄砲(てっぽう)をおくってもらったりしました。そして、大分で鉄砲(てっぽう)の製造(せいぞう)までしたのです。いまならハイテク、宇宙(うちゅう)ロケットのようなものだったでしょう。


府内のまちは国際都市
府内の町はすごい都会でした
 戦国時代の府内(ふない)の町は、日本でも有名な都市でした。ポルトガルや中国の品物がはいる貿易(ぼうえき)の町。5000軒(けん)もの家がならび、ポルトガルの商人や、キリスト教の宣教師(せんきょうし)たち、中国人、東南アジアの人々があるいている国際都市だったのです。

府内の町のまんなかに大友館がありました
 大分市顕徳町(けんとくまち)にある大友館(おおともやかた)のあとを見学したことがありますか?
 あそこに、日本でも最大級の館(やかた)がたてられていました。
大友館発掘現場の写真
大友館発掘(おおともやかたはっくつ)現場(大分市顕徳町(けんとくまち))
宗麟はなんと呼ばれていたでしょうか

 大友館(おおともやかた)の侍(さむらい)たち、そして町の人々は、宗麟(そうりん)のことを”お屋形(やかた)さま“と呼(よ)んでいました。


いまでものこっているポルトガル語

大友宗麟(おおともそうりん)がポルトガルと貿易(ぼうえき)をしたり、ポルトガルやスペインの宣教師(せんきょうし)たちがかつやくしたことで、戦国時代の日本人がポルトガルの言葉をいくつかおぼえてしまったのです。

日本のことばになったポルトガル語

ブランコ ビスケット ボタン キャラメル カルタ
コンペイトウ チャルメラ コップ ジョウロ
オルガン パン シャボン タバコ

大分のことばになったポルトガル語
みなさんのおじいさん、おばあさんがつかっていた大分のことばには、ポルトガル語がのこっていました。
バッポ(むしまんじゅう)
ボーブラ(かぼちゃ)
へぇ そうだったんだ!
(大分市教育委員会文化財課(ぶんかざいか)発行『よみがえる大友館(おおともやかた)と南蛮(なんばん)都市』より)
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