2001・8 Vol.41
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地球に優しい、人に楽しい、新世紀
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平松
「私も人づくりが重要だと考え、豊の国づくり塾、農業青年、若手経営者の塾、環境塾などをつくり、いろいろな分野の人材育成に取り組んでいます。」
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津本
「松下幸之助さんは、どういう立場になっても最高の能力を発揮する感覚を持っていたんです。松下政経塾でそういう人材を育てることに力を注ぎました。」
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歴史小説の旗手として
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| 平 松 私は『下天は夢か』が日本経済新聞に連載されていたころから先生の小説を読ませていただいてます。ぜひ一度お目にかかって、いろいろな作品にふれながらお話をさせていただきたいと思っていました。
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| 津 本 私も平松知事の『私の履歴書』(*)を拝見しました。ちょうど今、田中角栄氏の小説を書いているので、平松知事が通産省(現・経済産業省)にいらっしゃるとき、当時の田中大臣にコンピュータ政策の予算を認めてもらった話など大変参考になりました。 |
| 平 松 先生は、デビュー作の『深重の海』で故郷の和歌山のことを地元の方言を使って書かれていらっしゃいますね。『下天は夢か』の尾張弁もそうですが、私がすごいと思ったのは表現のリアリティです。地域の方言を効果的に使われていますので、その土地の雰囲気がとてもよく感じられます。 |
津 本 今はテレビが普及した影響もあって、驚くほど方言が衰退しているんです。和歌山に住んだことのない方が書いた紀州弁の小説を読んだところ、ちょっと妙なところがあることが気にかかりました。それで、地元の人たちが読んで違和感を持たせてはいけないと思い、『下天は夢か』を書くときには方言などの参考書を4冊買い、上町言葉という江戸初期の侍言葉を勉強して参考にしたんです。
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平 松 大分にも大分弁がありますが、最近方言に対する郷愁が強くなったのでしょうか、大分弁で書いた本が大分の若い人たちの反響を呼んで売れています。
方言だけでなく、先生の作品には合戦や斬り合いの場面の凄まじい迫力と臨場感があります。
出陣する若き信長の采配をたしなめようとした家来を間髪入れず、他の家来に命じて吊し斬りにさせる場面が『下天は夢か』の中にありますね。吊されたまま下半身が斬り落とされ、頭が半回転して下になる鮮烈な描写にド肝を抜かれました。戦国武将の姿が実に生々しく描き出されています。先生が居合術の達人であることもそのあたりのリアリティと関係しているのでしょうか。
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| 津 本 あると思いますね。それとやはり、歴史小説を書くときにまず1番大事なのは、その時代の風俗なんです。それがわからないと書けないんですよ。そのために資料を必死で集めいろいろ調べます。『下天は夢か』のときには、連載を依頼されてスタートするまで2週間しかありませんでした。それで「資料を選別してくれるしっかりした学者の方がいなかったらこれはできない、風俗の本をかなり集めなきゃいけない」と言うと、國學院大学の二木謙一教授を紹介していただき、快くご協力してくださったんです。それと運のいいことに、『武功夜話』(*)の現代語訳がちょうどできてきたんです。それでヤル気になったんですけどね。実は私のずっと昔の先祖は三河なんですよ。 |
平 松 そうですか、紀州ではないのですか。 |
| 津 本 三河なんです。徳川家康の家来だったんです。頼宣という家康の十番目の息子が元和五年(1619年)に和歌山まで来まして、そのときについてきた侍の1人なんです。それから、紀州藩御用の両替商になりまして、津本という姓になったんです。『下天は夢か』を書いたのもそういう因縁があったんでしょうか。 |
| 平 松 きっとそうではないですか(笑)。 |
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*私の履歴書・・・1992年6月1日から同30日まで日本経済新聞に掲載
*武功夜話・・・・・・豊臣秀吉の側近・前野将右衛門の一族が前野家の記録として書き残したもの。信長や秀吉に関することが詳細に書かれている。 |
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戦国武将の雄、信長に学ぶもの
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| 平 松 『下天は夢か 信長私記』を読ませていただきました。私たちが考えていた信長と先生の書いた信長は、著しく違っているという印象を受けました。先生は信長が非常に質素だったと書かれています。そして、情報を大切にする慎重派だがやるときはバッとやる、細心にして大胆だとも。 |
| 津 本 迂回して時間をいくらかけても、とにかく成功するまでやる。1回失敗すると別のやり方を考える。それは秀吉、家康にもあまりない徹底したやり方なんです。資料を調べていくとびっくりするようなことがわかってくるんです。それでこれはすごい人間だなと思いましてね。
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| 平 松 信長の「戦いの勝敗というものは、戦場での勝負は3割で、それまでの情報戦で7割方決まっている」という考え方は、今どきのIT革命ではないですけど、その当時から情報の大切さを理解していたということを示していますね。
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| 津 本 信長が、謁見にきた家老に、岐阜の城主である息子の信忠のことを「うまくやっているか」と問い質すと、その家老は「とてもいい殿様です。私どもがやって欲しいと思うようなことを私どもが口に出す前にやってくださいます」と答えました。それを聞いた信長は「信忠はそれまでの男か」と言ったのです。家来が考えてもないようなことをやらなければだめなわけです。
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| 平 松 なるほど。カリスマ的資質をそなえた人物でなければならないということですね。 |
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津 本 信長は派手にカリスマとして庶民の上に君臨するんですが、そのための道具をいっぱい使ってるんですよ。安土城もそのひとつです。
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| 平 松 あれだけ豪華絢爛に造ったのは、それだけの理由があったのですね。また、信長は、楽市楽座の導入や関所の撤廃などの大胆な改革を成功させていますね。 |
| 津 本 人の交流を盛んにし、自由な取引を行うことで地域経済を発展させるべく、中世からの鎖をいっぺんに断ち切ったわけですから、きわめて大胆で柔軟な発想だったと思います。 |
| 平 松 ものすごい社会革命ですね。今のリーダーたちも見習わなければいけません。家康なら本多忠勝、秀吉も黒田官兵衛とかブレーンがいましたが、信長はそういう人はいたんでしょうか。
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| 津 本 彼の場合1人ですね。政策の立案は彼1人の考えで行われました。亡くなられた東大の丸山眞男先生がおっしゃってましたよ、信長がもう10年長生きしてたらヨーロッパより早く産業革命を達成していただろうと。 |
| 平 松 そうだったんですか。丸山先生は、私が1番尊敬している恩師です。 |
| 津 本 丸山先生がおっしゃったとおりだと思います。家康は徳川家の存続を図るために工業資本、商業資本を押さえ規制しましたから。 |
| 平 松 信長は自家の存続よりも日本の将来を、そして、海の向こうのアジアのことを考えていたんですね。 |
| 津 本 家康や秀吉の考え方とは異なって、信長はヨーロッパ人的な考え方を持っていたようです。倭寇やポルトガルの宣教師などから相当な情報を集めてます。 |
| 平 松 外国からの情報を細かく聞いて、合戦における鉄砲の必要性をすぐ理解するような非常にグローバルな考え方を持ってたというのは、おそらく誰から教わったわけでもなく、自分の中に持っていた才能なんでしょうね。 |
| 津 本 そうですね、信長は誰よりも鉄砲の性能を熟知し、それをみごとに戦に活かしました。徹底した現実主義者です。 |
| 平 松 ところで、信長の最期となる本能寺の変について、あれはただ明智光秀が寝返ったのではなくて、後ろに足利義昭がいて、公卿勢力がいてという先生の新解釈がありますね。 |
| 津 本 光秀は本能寺の変の直前まで侍大将を3人京都に常駐させていました。京都には信長に制圧はされたけれども、まだ反信長勢力と言っていい人々がいたわけで、光秀はそういう勢力と接触する渉外係をやっていました。ですから、義昭ともしょっちゅう連絡を取る立場にあったのです。「信長をやったら俺達が後で面倒をみてやる」ということをおそらく義昭に言われたんだと思います。光秀はそんなに自信がなかったと思うんですけどね。それをあえて踏み切らせたものは、やはり僕は京都人の謀略だと思います。 |
| 平 松 なるほどね。それは面白い解釈ですね。やはり歴史はそういうミステリィーがあって面白いですね。 |
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不況のなかに現れた、経営の神様
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| 平 松 松下幸之助氏を描いた『不況もまた良し』は、平成不況といわれる今、大変参考になる本で改めて興味深く読ませていただきました。
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| 津 本 私は昭和26年に大阪の化学メーカーに入社しました。購買課という、文房具だとか、セメント、ペンキ、鋼材などを扱うところから始まりまして、最後はプラント建設までやって12年半勤めました。その間、同じ和歌山出身ということもあり、松下さんの時代を脇から見ていました。我々サラリーマンからはものすごく雲の上の人という感じでしたけどね。 |
| 平 松 松下幸之助さんも子どものときからなかなか果断な方だったようですが、不況のなか銀行からお金を借りるときに、担保がなければ貸せないというのを信用貸しだといって何回も頑張るところがありますね。
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津 本 担保じゃなく松下本人を信用してくれということですね。以来その信用をずっと保ちつづけていくのです。
松下は第1次大戦後の不況のときに独立して、それから昭和不況まで厳しい時代とともに進みました。塩の味はなめてみなければわからない、といわれるように、松下は不況を知り尽くしていたので、どんな状況でも活路を見いだせたのです。生活を楽にするのは何かということを電気を通じていろいろ考え、自分で作り出していきました。これはいいものだと思ったら、それを売らんがために宣伝をやるんです。懐中電灯のときなんか1万個をただで大阪中の問屋に配ったんです。
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| 平 松 面白いですね。
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津 本 そうしたら2ヶ月後からどっと注文がきたそうです。あのとき、松下さんには目標なんか見えてなくて、自分の資本と製品、それしか見えてなかったんじゃないでしょうか。
経験に裏打ちされた感覚ですね。手に持っただけで売れるか売れないか、いい製品か悪い製品か、何かピーンと感じるものがあったんでしょう。 |
| 平 松 やはりそういうものを持っていたんですね。
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| 津 本 「私は絶対に失敗しない」という信念を持っていたわけです。特約店や代理店が倒産すると、そこへ経理の担当者と一緒に行きまして、帳簿をひっくり返してみるんです。どういう原因で倒産したかということを全部調べ、それを千通りも頭にたたき込んでいたんです。70歳ぐらいになって、企業がだめになる理由をすべて理解できたというふうにおっしゃっています。 |
| 平 松 私は、通産省のコンピュータ担当の課長のときに、大阪で松下幸之助さんにお会いしました。「平松さん、コンピュータで本当に儲かる商品が出来ますか」と言われたのを覚えています。そのとき私は40歳そこそこで松下さんと2人で差しで話したんです。 |
| 津 本 つぶしの利かない人間は駄目だと言ってましたけど、本人自身がとてもつぶしが利くというんですか、どういう立場になっても最高の能力を発揮する感覚を持っていたんです。松下政経塾を設立して、そういう人材を育てることにも力を注ぎました。 |
| 平 松 私も人づくりが重要だと考え、地域づくりを学ぶ豊の国づくり塾や、農業青年、若手経営者の塾、環境塾などをつくり、いろいろな分野の人材育成に取り組んでいます。 |
| 津 本 平松知事のご活躍については、和歌山県の知事さんからもお話を聞いています。 |
平 松 ありがとうございます。太平洋新国土軸という和歌山県と大分県、紀淡海峡から豊予海峡をつなぐという構想もありますからね。
大分には大友宗麟という戦国時代の武将が活躍して、ポルトガルと交流するなど西洋文化が栄えていました。このあたりのことで先生に、和歌山県と大分県をつなげるような題材で作品を考えていただければと思います。ぜひよろしくお願いします。 |
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津本 陽(つもと よう)
作家
1929(昭和4)年和歌山市生れ。
12年半のサラリーマン生活を経験後、地元の和歌山で同人誌『VIKING』で作家活動を始める。2作目に発表した『丘の家』で早くも直木賞候補になるなど才能を発揮。その7年後『深重の海』で紀州・太地村を舞台に、鯨を追う勇敢な漁師達を描き、第79回直木賞を受賞。『明治激剣会』で剣豪小説に新境地を開き、その系列の作品に『柳生兵庫助』『新陰流小笠原長治』『千葉周作』等がある。近年は、『下天は夢か』など戦国を舞台にした長編歴史小説を意欲的に執筆し、95年『夢のまた夢』で吉川英治文学賞を受賞した。
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