NEOOITA

2002・4 Vol.44

●ワールドカップ記念号・特集
よみがえる国際都市「府内」
−宗麟時代から四百余年の時を越えて
 取材・文・井上裕子 撮影・竹内康訓
取材協力・資料提供 鹿毛敏夫(大分県立先哲史料館 主任研究員)
 戦国時代の16世紀後半、大友宗麟が全盛を極めたころの豊後府内(今の大分市)は、日本屈指のスケールを誇る国際都市だった―――こんな驚くべき史実が、実はつい数年前まで実証されておらず、当の大分県民にさえ知られていなかった。平成8年から始まった大分市教育委員会、大分県教育委員会
による大友府内町遺跡の発掘調査が進むにつれ、世界に誇る「中世国際都市」の姿が、次々と浮かびあがってきたのである。
 全盛期には九州全体の3分の2を支配した大友家は、中国や朝鮮、東南アジア、ポルトガルなど諸外国との貿易を盛んに行い、遠くヨーロッパにまで「BUNGO」の名が知れ渡っていた。その本拠地が府内。当時の府内には諸外国との貿易をいとなむ豪商や外国人たちが居住し、港には外国船が出入りして、大変なにぎわいを見せたという。
 以来、四百数十年。かつて先進の国際都市として栄えたまさにその地で、W杯サッカー大会という今世紀最初の国際イベントがいよいよ開催される。この機に、中世の歴史をひも解きながら、大分の地、大分の人々の中に息づく「国際性」の根っこを探ってみたい。
▼府内町遺跡から発掘された出土品の数々。
金箔土師器。祝い事などに使われたものか。
翡翠釉小皿。鮮やかなブルーが目を引く。
貝殻を描いた景徳鎮の小皿
彩色が美しい華南三彩陶馬型水滴。
 
 
 戦国末期の府内は、大友一族が住んだ「大友館」を中心に、四十五の町に五千軒の家が軒を連ね、特に館の門前に開けた桜町・唐人町には豪商や貿易商人たちの屋敷が並んでいた。また大友家の菩提寺として栄えた広大な万寿寺をはじめ、二十五もの神社仏閣、さらにはキリスト教会(ダイウス堂ケントク寺)までがあった。
 府内は大分川河口の西岸に開けた町。当時の海岸線は現在よりもっと南にあった。現在の地図と照らし合わせて見ると、中世府内は現大分市中心部より南東方面にずれており、現在の顕徳町三丁目あたりが大友館の位置である。わずかにこの顕徳町だけが、当時のなごり(ダイウス堂ケントク寺)を今に残す地名である。

検証!華やかなる中世国際都市
庶民の暮らしの中まで溶け込んだ国際色
大友館内部の建物のコンピュータグラフィック復元(復元図提供:鈴木慎一)
 左ページ上の府内古図は、戦国時代の府内を描いたとされる絵図のひとつである。これを見ると、府内は東を大分川に仕切られ、南北方向に四本、東西方向に五本の大路・小路をもつ町である。町の中心に「大友御屋敷」がでんと構え、その南東にある大友家の菩提寺「万寿寺」の境内はさらに広大だ。
 大友府内町遺跡の発掘調査は、この大友御屋敷(大友館)周辺を中心に進められてきた。それらの調査結果と古文書などの資料をもとに、古地図から戦国時代の府内の様子を復元したのが前々ページ(p2)の想像図だ。川沿いに開けた町に家や寺がびっしりと並んでいる。人の姿こそ描かれていないが、町のにぎわいが見えてきそうだ。この想像図を手に、現在発掘中のいくつかの現場を、大分県立先哲史料館主任研究員・鹿毛敏夫氏の案内で歩いてみた。
大きな井戸の跡。木の桶らしきものも出てきた。
陶磁器やお金を神に捧げた跡が残る地鎮遺構。
食料にした貝の殻はあちこちから出てくる。
出土したばかりの牛の角。
編んだ竹は築地塀(ついじべい)の中に入れたものか。
戦国時代の府内古図(大分市歴史資料館蔵)、下が北。
 
大友宗麟やザビエルも歩いたメインストリート。
 東西約七百m、南北約二千二百mの府内という「都市」の中には、四十五もの町があった。なかでも国際都市・府内を象徴する町が、大友館北側の「唐人町」と正門前の「桜町」。いずれも大友館の門前町として栄えたもので、唐人町には中国・朝鮮・東南アジア各国の人々が居住・滞在し、桜町には外国との貿易をいとなむ日本の豪商たちが住んでいたという。
 ちょうどこの「桜町」のはずれにあたる府内町跡第十八次調査区を見学した。現在の地名でいうと錦町三丁目四番、国道十号のすぐ東側である。一帯は地面から一・五mほど掘り下げられており、この高さが当時の地表面とのこと。ここに約六m幅の道らしきものが続いているのがはっきりとわかる。
 「これが大友館正門前を通る当時のメインストリートです。大友宗麟も歩いた道路ですね」と鹿毛氏。宣教師フランシスコ・ザビエルが館を訪問した際も、ここをにぎやかにパレードしたとか。今はすぐそばに高層マンションがそびえているが、頭の中はいきなり宗麟の時代にタイムスリップしていく。
 ここより少し北に歩いて、府内町跡第十一次調査区へ。県道大分・臼杵線のすぐ南側にあたり、現在の町名は錦町三丁目一番。ここは「唐人町」とメインストリートをはさんで向かい合う称名寺の跡で、万寿寺に次ぐ規模を誇る寺だったという。ちょうど私たちが訪れたとき、土の中から牛の角が顔を出していた。当時の人が荷物を運ぶ牛車か食料にしていたものでは、とのこと。ここは土地が泥炭層のため、いろんなものが真空パック状態でそのまま残っており、他にも食料にしたサザエやアワビの貝殻、下駄やわらじ、箸など、人々の生活を彷彿とさせるさまざまなものが出土しているという。
マンションのすぐそばで発掘作業が進む。四百数十年のタイムスリップが面白い。
戦国府内の町があった場所は、現在は住宅地と畑が大半だ。
出土した多彩な陶磁器の数々。東南アジアのものが非常に多い。[1]中国産の天目碗。ほぼ完璧な形で出るのは珍しい。[2]景徳鎮の碗。[3]備前焼すり鉢。[4]華南三彩陶水注。[5]朝鮮産陶器碗。[6]ベトナム産長胴瓶。[7]タイ産壺。
今年3月に開かれた中世大友府内城下町跡・大友氏館跡現地説明会(大分県教育委員会・大分市教育委員会共催)には、わが町のロマンに興味津々の市民が大勢集まった。
 このほか、大友館周辺の発掘現場をいくつか回り、当時の人々が使っていた井戸の跡や、屋敷の石組み、お金や皿などを捧げた地鎮遺構などを実際に見ることができた。
 なかでも驚いたのが、アジア各国からの多彩な輸入陶磁器の数々である。府内の町全体から、中国、朝鮮、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの壺や茶碗、皿、水滴(水差し)などの破片が大量に出土している。白地に藍の絵付けがほどこされた皿、緑や黄色の鮮やかな彩色が残る馬型の水滴など、今見ても美しいものが多い。
「町のどこを掘ってもアジアとの交流を示す遺物が出る、というようなところは他にないでしょうね。それだけ町の人たちが生活の中でアジアの品々を普通に使っていたということで、まさに生活に溶け込んだ国際色ですね」と鹿毛氏は言う。


 
 
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