2003.1 Vol.47
福沢諭吉、広瀬淡窓、三浦梅園…
古くから大分には、人を魅了し、人を集める「人間力」を持った人材がいた。
それは、今も昔も変わらない。
魅力ある地域には、きっと人間力を持った人がいる。
まず自分が動き、人が集り、地域がパワーを持ち始める。
しっかりと地に根を張り、自分のポジションで、目標を定めて、やれることから始める。「人間力」が輝きを放つとき、その地域はもっと魅力を増してくる。
二十一世紀の大分県を様々な分野で支える「人間力」を持つ人々。
それぞれのストーリーを追ってみた。

 農業を支える人間力(宇佐市)
有限会社ヘリックス専務取締役 久保清文さん
ハウスの中にズラリと並ぶミニ観葉樹。親株からの株分けや挿し木で増殖していく。

 「将来、奄美で釣りして遊びたいんですよ」
宇佐平野の一角、1.2クタールの敷地に80万鉢の観葉植物と花の生産、販売を行っている有限会社「ヘリックス」の専務、久保清文さんの口からは、取材中、この言葉が何度も飛び出してきた。
 久保さんと観葉植物との出会いは奄美大島だった。大学時代に日本中を旅する中で出会った奄美大島の土地にすっかり魅せられてしまい、ぜひ、ここで暮らしたいと思ったという。
 「そのためにはまず、この土地で生計を立てることだ」と思案を巡らせているとき、滞在していたコテージの周辺や、庭に無造作に生えている植物に目が止まった。よく見ると、そのどれもが東京や大阪など、都会のオフィス、ホテル、レストランなどで見かける高価な観葉植物ばかりだった。奄美の人々にとって、普段見慣れている植物は単なる「草」でしかないが、外から来た久保さんの目にはとても新鮮に映った。
 「そうか、これを栽培して売ればいいんだ!」。
若き素人ゆえの、無謀とも言える思いつきだった。観葉植物や花の栽培経験もなく、ましてや今のようにインターネットやマニュアルがあるわけでもなく、海に囲まれた島の中では情報は皆無に等しかった。
「教科書なんてない。島人はあきれているだけで、もちろん教えてくれる人もいない。第一、言葉もわからないし…、頼りになるのは植物だけなんです。『お前たちが助けてくれるよな』って植物に毎日声を掛けてね、気が遠くなるほどの失敗を繰り返しても、あきらめず、懲りずに続けてチャレンジしていったんです。島で生計を立てたいばっかりに…」と当時を思い出して久保さんは笑う。
有限会社ヘリックスの事務所兼出荷施設は1.2ヘクタールの広々とした敷地内に建つ。

 気候の変化や、土の性質や、大型台風など、奄美大島の風土や自然に向かい合いながらも、植物が自ら犠牲になって教えてくれた数々の失敗を重ねて、久保さんはそれぞれの植物の生態、独自の栽培法をしっかり身に付けていった。
 気付くと約10年近い歳月が経ち、当初は言葉さえわからなかった奄美の島にも久保さんはすっかり溶け込んでいた。その矢先に、父親がガンという知らせを受け、それを機に宇佐に帰郷。5年ほどサラリーマンを経験し、やがて、奄美で培ったノウハウを生かそうと、宇佐でも観葉植物の栽培に着手することになる。
2つの8連棟のパイプハウスと5連棟のパイプハウスから生産される鉢は年間80万鉢。

約150種類ものミニ観葉樹は底面給水シートの利用によるベンチ栽培で。

「穀倉地帯で有名な宇佐平野で観葉植物を栽培する」。今でこそ癒しの時代と呼ばれ、多くの人が生活に緑を取り入れているが、当時は、そんな考えに賛同する人はいなかった。設備投資の融資を申し込んでも、実績がないからと却下されるばかり。
それなら実績を作り、米どころ宇佐市でも観葉植物の栽培ができることを証明すればいいだけだ。久保さんはまず空いているハウスを借り、細々ながら宇佐の環境に合った植物栽培を始めた。支援や需要をじっと待つのではなく、オリジナル商品を考え、積極的にアピールしていく。この、戦略というよりも自身の生き方とも言える前向きな姿勢が、徐々に市場に受け入れられた。次に農協や経済連が注目し始め、やがては行政をも動かしていく。宇佐市郡の農家の中にも、久保さんの指導を受けて栽培を始めるものが出始めた。次第にハウスも増え、人も増え、エリアも拡大した頃、個人の力では限界を感じ、平成13年に有限会社「ヘリックス」を設立。
 今では法人(生産者)、関係機関が一体となって、自社生産分、他の個人生産分の出荷を共同で行い、北から南まで日本全国の市場へオリジナル商品を送り出している。
 奄美の島から宇佐へ、そして全国へ。ゼロからここに至るまで事業を成功させた久保さんが、次に目指しているのは強力な産地づくりだ。そのために必要なことは生産者の自立だという。何のためにこの仕事をして、自分には何ができるのかを見極めること。個人が自立してこそ、人と人の絆が強くなっていく。この原点がしっかりしていれば、どんなことがあっても揺るがない、ばんじゃくな生産地がつくれるのだと、久保さんは強く主張する。
 これまでの事業や、これから産地づくりに向かう久保さんの動機は、奄美にいた頃から一貫して変わらない。ただ一つ『釣りをして、遊びたいから』。
 「誰でもバカンスに出かけようと思うと、その前にいろんな準備をするでしょう?それと同じで、僕の場合は50歳から人生のバカンスに出掛けて遊びたいがために、こうやってシステムを作りながら、ひたすら準備をしているんですよ」
 久保さんは、現在43歳。宇佐が観葉植物の生産地として全国に知れわたる頃には、青く、美しい奄美の海で、釣り糸をたらして、のんびり過ごす久保さんの姿が見られそうだ。
16鉢セットをバランスよく箱詰めにして出荷。商品に添付するヘリックス制作のオリジナルミニパンフや、ホームページでのネット取引など積極的なアプローチが好評。
URL http://www.d-b.ne.jp/helix

久保清文さんと、その妻であり、社長でもある香さん。奄美にいる頃からドラマのような歴史を共に歩んで来た。「裏話の方がよっぽど面白いわよ〜」と明るく笑う。南の島が似合うご夫婦だ。




 福祉を支える人間力(大分市)
社会福祉法人シンフォニー理事長 村上和子さん
授産施設「コンチェルト」でギフト用の箱作り作業に追われる利用者とスタッフ。理事長の村上さん(写真左)も仲間に入って慣れた手付きで作業に加わる。

 授産施設「コンチェルト」、デイサービスセンター「ファンタジア」、ヘルパーステーション「シンフォニー」、こどもデイサービス「まーち」。知的障害者と障害児のための福祉施設「シンフォニー」の産みの親であり、理事長兼施設長でもあるのが村上和子さん。空色のエプロンをして現れた村上さんは、「理事長」というイメージからは想像しにくいほどの軽やかさと親しみやすさで、終始ニコニコと微笑みながら、楽しそうに施設内を案内してくれた。
 授産施設「コンチェルト」の作業室では、スタッフと利用者たちがギフト用の包装作業に黙々といそしんでいる。「相変わらず丁寧ね」と障害者の一人に声をかけながら、村上理事長はいつの間にか作業に参加。慣れた手付きで箱を組み立てていく。次に案内されたデイサービスセンター「ファンタジア」のフロアでは、軽快な音楽に合わせてダンスの練習が始まろうとしている。「大分大学の学生さんがボランティアで熱心に指導してくださるんですよ」。ここでも理事長はうれしそうに手を叩き、踊りの輪に加わった。さらに、別館のこどもデイサービス「まーち」では、若い女性スタッフ三人が、飛び回る子どもたちの相手をしながら、ランチの支度に大わらわ。「大きくなったわねー、子どもたち」思わず母の笑顔がこぼれる。
「午前10時から午後3時までお預かりしているんです。子どもさんを集団生活に慣れさせるというだけでなく、その間、お母さんたちはホッと息をついたり、いろんな用事を済ませたりすることができるでしょう。こんなサービス、私たちの頃は無かったもの。あったらいいのになーって思っていたものを全部つくっちゃったんです」
 この『無いならつくってしまえ』の発想が、村上さんを動かし、このように開かれた施設を誕生させてきた。
 「だって、無いって嘆いている時間もエネルギーももったいないでしょう?無いならつくるに変換した方がずっと有効的ですもの」
こどもデイサービス「まーち」の昼食時風景。3名の若いスタッフたちも小さなテーブルで食事を共にする。
1991年に第1号店としてオープンした森町の「ネバーランド」。雑貨や野菜を販売し地域に溶け込んでいる。

デイサービスセンター「ファンタジア」では大分大学の学生がボランティアで創作ダンスの指導を行っていた。「モーニング娘」の曲にノリノリの障害者たち。表情もイキイキと輝いている。

コンパル店の喫茶「ネバーランド」で接客中のフロアスタッフ。ハキハキと礼儀正しい接客が印象的。
 ダウン症の長男が養護学校に入学した折、中学を卒業した後のことを思案して授産施設を見学して回ったのが、「普通の主婦」からの転機となった。施設は、どこもいっぱいで足りない。さあ、どうする?と夕飯時に家族と話し合った結果、「他に無いのなら仕方がない、つくっちゃおうか」と、急きょ、方向転換することに。それからひとりで訪ね歩いた施設は、どれも快適そうだったが、見学していくうちに、ふと何かが足りないと思った。そこにいるのは職員と障害者だけ。地域の人はどこにいるの?これはヘンだ。偏見を持たないで障害者を理解をして欲しいと願いながら、世間から隔離している。もっと障害者の方から積極的に社会に地域に出て、理解してもらわなくては。自分がつくるなら、施設ではなく、そんな対等になれる場をつくりたい…。想いはどんどん湧き上がり、同時に行動し、やがて具体化していった。
 村上さんの素朴な疑問が生んだ「地域に密着した場」は、まず、1991年大分市の東部にファンシーグッズを販売する「ネバーランド」という名の店としてカタチになった。「障害者の店」でも「福祉の店」でもなく、通常の店のように卸売業者から仕入れた小物を売る、小売店だ。この第一号店が大きな一歩となり、それから次々と様々な店をオープンさせて行く。ケーキ店、葬祭ギフト品の包装作業所、そしてコンパルホール内の喫茶「ネバーランド」など五つの作業所を地域に展開。さらに、1998年には社会福祉法人シンフォニーを設立し、翌年には授産施設、デイサービスを開設した。また、働く場所だけではなく、日常の暮らしも自分たちでこなせるように生活力を付ける「家」としての宿泊施設「五番館」もつくった。どれもが、利用者も、その家族も自立して実社会で生きていけるようにという方針から生まれた開かれた場だ。現在、今年20歳になる村上さんの長男も含めた19歳〜45歳の利用者が、自宅から希望の作業所まで通っているという。
 「ここまで来るのは一人じゃできなかったですよ。たくさんの人たちに支えられて、エネルギーを分けてもらったからこそ、できたんです」
 力を合わせて奏でていきたい。村上さんの願いが「シンフォニー」となって福祉に、今、新しい音を響かせている。