2003.4 Vol.48

 昭和五十四年に大分県で産声を上げた「一村一品運動」。
 産品、文化、観光…一つでいい、なんでもいいから、自分たちの村や町が誇れるものを、自分たちの手で生み出していこう。
 そんな掛け声とともに、それぞれの地域が一歩を踏み出した。
 その精神は、「グローバルに考え、ローカルに行動する」。
 運動の主体となったのは、地域を動かす「人間力」だ。
 人づくりを目指した「豊の国づくり塾」をはじめとした数々の塾が、地域を支える多くの人材を輩出していった。
「一村一品運動」は、着実に成果を上げ、大分から発信された活動は、二十一世紀になった今もなお、日本国中へ、アジアへ、世界各国へと、草の根のように、強くしっかりと、広がり続けている。
 運動開始から二十四年。さらなる一歩を踏み出すためにも、地域おこしに取り組んできた現場の声と、「一村一品運動」の軌跡を追い、今一度、“地域づくり”を考えてみたい。



そして、運動は始まった。

 「一村一品運動」。大分県の代名詞ともいえるこの運動は、今や国内はおろか、世界に広がっている。この運動は、もちろん突然、ふって湧いたものではない。数々の物語と長い年月を経て、ゆっくりと熟成されてきた。大分県には運動を生む土壌があり、人材があり、情熱があった。
 しかし、なにもないところから始まったといえなくもない。そもそも小藩分立の歴史を持ち、大きな特徴もなく、それぞれの地域に独自の文化がはぐくまれてきた反面、全県共通の価値観や誇りを生み出していなかった大分県。“無い”ことの嘆きがまん延していた中、昭和五十年に平松副知事が誕生した。国土庁や通産省で国レベルの大きな政策を考えていた役人から地方行政へと一大転身を果たした副知事は、地域の実態を知るためにはまず、その中に飛び込んでいこうと地方行脚を始めた。
豊の国づくり塾合同塾(昭和61年9月4日)
 “無いからこそ、生み出せるものがある”“無いのなら、あるものを生かせばいい”…そんな、逆境を逆手にとった発想は、大山町や湯布院町の地域おこしですでに実践されつつあった。「ウメ・クリ植えてハワイに行こう」のスローガンを掲げた大山町での若者たちとの夜なべ談義、「牛一頭牧場」「湯布院映画祭」などを実施していた湯布院町への応援。地域の熱気に触発されて卵のカラを外側から割ろうとする平松副知事と、内側から外に向けてカラを割ろうとしていた地域のエネルギーが見事にあわさった。エネルギーとエネルギーの出逢いが、分厚いカラを破って、なにも無かったはずの大分県に、「一村一品運動」という元気な“ヒナ”を誕生させたのである。
ハウ英国外相来県(昭和63年1月)

動き始めた一村一品運動

 昭和五十四年、平松県政がスタートした。同時に、その年の秋、いよいよ一村一品運動も動き出した。
 「商品でも観光でも文化でもいい。自主自立の精神で、全国・世界に誇りとなるモノをつくろう!」
 知事の本気の「一村一品運動」宣言が、各市町村に伝わっていった。
 そして、翌年の昭和五十五年一月。青研協(大分県青年自主研修活動連絡協議会 宇留島虎太郎氏(現 安心院商工会長)代表)主催の「第一回ムラおこし研究集会」が、安心院で開催された。テーマは「異業種交流を求めて」。
豊の国21世紀塾卒塾式(平成15年3月16日)

 自分の住む地域を良くしよう。嘆くよりも、なんとか自力で“ヨダキイズム”から脱却しよう。会場は、そんな熱い想いを抱いた商工業者、農業者の若者たちの熱気に包まれた。県内はもとより、福岡や熊本からの参加者は二百三十名を数えた。真ん中に置いた産物を囲み、車座になってヤル気をぶつけあう若者の集会の中で、「一村一品運動」が動き始める確かな手応えを、知事は感じたに違いない。
 このシンポジウムをきっかけにして、一村一品運動は、確実に広がり始めた。行政に依存しない、地域から外に向けて発信する内発型の地域おこしが、県内各地で始まっていった。地域同士が情報を交換し合い、また、いい意味での競争相手になり、相乗効果でさまざまなモノを生み出していった。かぼす・しいたけ・大葉・車エビ・焼酎・みそ…競争から生まれたそれぞれの産品は、地域の地場産業となっていった。特に麦焼酎は、一大焼酎ブームを巻き起こし、大分県は、今では全国トップの焼酎産地となっている。自立自助の地域の頑張りに、県も販路開拓や大分フェアの開催などで後押しした。知事も自らが広報マンとなり、地域の産物を行く先々で積極的にPRした。その最たるものが、昭和五十六年十月に開催された「‘81大分フェア」である。今でこそ、都道府県の東京フェアは珍しくないが、当時、そんな試みをする県はなかった。大分県はフェアの先駆者だった。
牛食い絶叫大会(湯布院町)

 会場は、ホテルオークラ。知事や関係者の人脈も活用して、招待客は政官界、マスコミ、文化人、芸能人、各国大使など約千人に上った。会場にはしいたけのホダ木や、県産魚が泳ぐ巨大な水槽が飾られ、二百六十六種類、千六百八十四点の産品が展示された。県の名産品を使った郷土料理コーナーには人だかりができ、画期的なイメージアップとともに大分フェアは大成功を収めた。フェアの一番大きな収穫は、フェアに参加した地域住民に、自分たちの産品が東京でも通用することの確信と自信をもたらしたことだった。
 このようなPR作戦も効果を上げ始め、一村一品運動は、大分県の名とともにマスコミなどに取り上げられ、全国に宣伝されていった。運動は、同じように過疎化や若者離れに悩む地方の救世主だったのだろう。地域活性化のカンフル剤として、この運動を取り入れた北海道を皮切りに、たちまち全国へと広まっていった。
 「全国の自治体の約七割がなんらかの形で一村一品運動に関わっている」
 昭和六十三年、自治省の外郭団体の地域活性化センターはこう発表した。自治体間のイベントやシンポジウムなどの交流が盛んになり、情報交換を通して活性化していく地方の時代が始まった。

一村一品運動は人づくり

 一村一品運動はモノづくりに限らなかった。運動のもう一つの特徴は、人づくり。活きのいい人間力があってこそ、地域は力を持つことができる。地域の基盤づくりのために先ず大切なのは、豊かな人づくりである。この精神から、昭和五十八年「豊の国づくり塾」が開設された。塾是は「継続・実践・啓発」。地域を引っ張っているリーダーの哲学を学び、成功した事例、失敗した試みを参考にして自分たちの実践に役立てたい。そんな思いを抱いた者たちが、第一期生となった。講師陣は湯布院町の溝口薫平氏ら県内各地の地域リーダーをはじめ、東京の経済界、言論界から多数迎えられた。
第1回まちづくり懇談会(昭和54年7月6日)

 当初から塾に関わり、運営委員長などとして、リーダーの見本となってきた溝口薫平氏は、「豊の国づくり塾」をこう語る。 「当時は、行政に背を向けた若者があちらこちらにたくさん居ました。その人たちは自分の思っていることをズバズバ言う元気のいい青年たちです。そんな若者の近くまで知事は降りて来てくれた。行政のトップがここまで近い存在になったことはかつてなかったですからね。そりゃ、みんな真剣になる。語り合っていくうちに燃えちゃったんですよ。『ああ、この知事とならやれる』って。希望と可能性が見えました。知事もまた、『これなら一村一品運動は行ける』って思ったでしょう。知事の掲げている夢と、地域をおこそうとする私たちの夢が重なり合って、お互いにやろうという気を起こしていったんです。だけど、一村一品運動も一人ではできない。それで、どうやって仲間づくりをし、どういうふうに仲間と一緒にやっていくか?仲間が多いほど情報もパワーも集まるわけですから。それにはやっぱり人材育成だということで、「豊の国づくり塾」へとつながっていくわけです。
 塾が誕生した当時は激動の時代です。だが、みんな楽しんでいた。出逢いが良かったんだな。塾に集まったのは、みんな若くて明るくてエネルギーもある連中ばかり。それに村や町では異端者だ(笑)。異端者を知事が認めて褒めてくれるんですから、そりゃ、ますます燃えますよね。『脱藩浪人がうろうろしてた』って知事がよく言うほど(笑)、一つの町だけではどうしようもない者が町を飛び出ていって、他の地域と融合し、ダイナミックに交流をしていく。今までの組織を完全に崩していくわけです。そして、ありがたいことにいい見本もあったんです。私たちよりも少し先輩の大山町の町長をなさっていた矢幡治美氏。地域おこしの先駆者とも言える矢幡氏の影響力というのはすごかった。彼を一つのシンボルとして地域づくりをしていこうと。そういう意味で一村一品運動も、人材育成も、農業の大山、観光の湯布院、他にも宇佐や安心院など県内ですでに活動していたいい見本があり、人材が居ました。そういう人たちを中心として塾をこしらえていったんです。一村一品をつくっていくのは人材だ。だから、その“人”に光を当ててみようと。私は旅館業ですけど、旅館をつくっていくよりも地域の魅力をつくっていこうという気持ちでしたからね。そのためには地域同士が情報公開をしていきながら、地域のレベルを見せ合いながら、質を向上していく。塾は、そんな向上、交流の場となっていったんです」。
湯布院町の地域リーダー 溝口薫平氏
 「塾」が、一人ひとりに大きな勇気と刺激を与え、塾生は学んだこと、吸収したことを地域での実践に生かしていく。そんな「人間力」を備えた元気な人材が次々と巣立っていった。地域づくりは、人づくりという「一村一品運動」の精神が、大きく実を結んでいったのだ。
 「豊の国づくり塾」には、平成元年度に大学院ともいえる「こすもすコース」が新設され、四年度には卒業生が組織する「NEO21塾」が開設された。六年度から県内十二の地方振興局ごとに「NEO21塾・地域塾」、十三年度からは「豊の国21世紀塾」と変遷し、これまで千九百六十一名の卒塾生を輩出している。
 また、「豊の国づくり塾」のみならず、現在では「21世紀農業塾」「豊の浜塾」「豊後やる木塾」「商い未来塾」など各分野での人づくりも進んでいる。

豊の国づくり塾入塾式(日出塾)(昭和58年11月21日)