| ▼恐慌とアジア太平洋戦争 |
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第一次大戦後の不況から脱却し得ないうちに、金融恐慌・世界恐慌の波をかぶり、金解禁デフレもあって、昭和6年県内の経済は不況のドン底を記録した。県内最大手の二十三銀行と大分銀行が同3年合併して成立した大分合同銀行も、合併時の実績を回復したのは同9年上期であった。郡市部では労働争議や住民運動があり、基幹の米と繭を直撃された農村部の景気回復はさらに遅れた。
危機突破のために、昭和7年より農山漁村経済更正運動・時局匡救事業が展開され、満州事変以来の中国侵略が同12年日中全面戦争となるや、国民精神総動員運動・大政翼賛運動へとつながり、同16年日米は開戦した。郷土部隊は大分連隊兵舎を同12年8月出発し、中国各地を転戦、フィリピン・ジャワ・チモールを経て、バンダル島で終戦を迎えた。戦死者総数4万人余、県内でも空襲による死者485名を出し、大分市の中心街はほぼ壊滅した。 |
| ▼新しい豊の国づくり |
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| 昭和20年8月わが国はポツダム宣言を受諾して、6年余アメリカを中心とする連合国の占領を受けた。別府にも占領軍キャンプが置かれ、間接支配の下戦後復興と戦後改革が推進された。日本国憲法のもと初の公選知事は細田徳寿で、細田二期のあと、木下郁(四期)、立木勝(二期)と続き、平松守彦(現在六期中)に至る。戦後すでに半世紀以上を経たが、県民は知事を先頭に、各種の災害や景気変動と闘いつつ、県勢浮揚に取り組んで来た。大野川河水統制による農工併進策、鉄と石油を中心とした新産都、臨海工業地帯テクノポリス、逆転の発想による一村一品運動等々。しかし県人口は昭和30年の127万7千人以後、これを回復し得ないでいる。対全国比も1%を割った。今や成熟社会に達し、あらゆる分野でグローバル化の顕著な中で、単なる量のみでない、質や個性を含めた「新しい豊の国づくり」への挑戦と模索は続いている。 |
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大正13年当時の豊後竹田駅

鯛生金山(中津江村)

津久見 石灰セメント

焼土と化した大分市

新産業都市(大分市)

FAZ 大分港 |