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歴史・文化 【大分県130年[2]】

恐慌とアジア太平洋戦争
 第一次大戦後の不況から脱却し得ないうちに、金融恐慌・世界恐慌の波をかぶり、金解禁デフレもあって、昭和6年県内の経済は不況のドン底を記録した。県内最大手の二十三銀行と大分銀行が同3年合併して成立した大分合同銀行も、合併時の実績を回復したのは同9年上期であった。郡市部では労働争議や住民運動があり、基幹の米と繭を直撃された農村部の景気回復はさらに遅れた。
 危機突破のために、昭和7年より農山漁村経済更正運動・時局匡救事業が展開され、満州事変以来の中国侵略が同12年日中全面戦争となるや、国民精神総動員運動・大政翼賛運動へとつながり、同16年日米は開戦した。郷土部隊は大分連隊兵舎を同12年8月出発し、中国各地を転戦、フィリピン・ジャワ・チモールを経て、バンダル島で終戦を迎えた。戦死者総数4万人余、県内でも空襲による死者485名を出し、大分市の中心街はほぼ壊滅した。

新しい豊の国づくり
 昭和20年8月わが国はポツダム宣言を受諾して、6年余アメリカを中心とする連合国の占領を受けた。別府にも占領軍キャンプが置かれ、間接支配の下戦後復興と戦後改革が推進された。日本国憲法のもと初の公選知事は細田徳寿で、細田二期のあと、木下郁(四期)、立木勝(二期)と続き、平松守彦(現在六期中)に至る。戦後すでに半世紀以上を経たが、県民は知事を先頭に、各種の災害や景気変動と闘いつつ、県勢浮揚に取り組んで来た。大野川河水統制による農工併進策、鉄と石油を中心とした新産都、臨海工業地帯テクノポリス、逆転の発想による一村一品運動等々。しかし県人口は昭和30年の127万7千人以後、これを回復し得ないでいる。対全国比も1%を割った。今や成熟社会に達し、あらゆる分野でグローバル化の顕著な中で、単なる量のみでない、質や個性を含めた「新しい豊の国づくり」への挑戦と模索は続いている。
 
大正13年当時の豊後竹田駅


鯛生金山(中津江村)


津久見 石灰セメント


焼土と化した大分市


新産業都市(大分市)


FAZ 大分港


一村一品運動
「国際評価に耐え得るものを少なくとも地域で一つは生み育てよう」と平松守彦大分県知事が提唱。過疎化など地方試練の時代にあって同様な運動はまたたく間に全国に波及、20年余たった現在では世界にも広がりをみせる。県民の自発的な地域づくり運動とも連携、単なるモノの生産に終わらず、ココロ起こし、人づくりのたくましさを身につけた。いまや地域振興の代名詞とも言える存在である。