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歴史・文化 【先哲[2]】

蘭学者前野良沢 南画家田能村竹田
 中津藩医前野良沢(1723―1805)は47歳から蘭学の勉強を始め、蘭学に理解を示す藩主奥平昌鹿の支援で、長崎へ遊学。そこで入手した解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白らと翻訳する。訳後、玄白は『解体新書』と題して出版するが、完全な訳を期した良沢は訳者として名を出すことを拒んだという。蘭語学習書の「和蘭訳筌」などの著作がある。『農家益』・『農具便利論』・『広益国産考』など多数の農書を著した日田出身の農学者大蔵永常(1766―1860)は、生物の循環構造を説明するための著書『勧農業書 農稼肥培論』で『解体新書』の挿図を引用している。
 日本南画の最高峰といわれている田能村竹田(1777―1839)は、若くして絵筆に親しみ、頼山陽ら多くの文人・文化人とも交流している。南画家竹田の名を高めるのは文政年間後半からで「稲川舟遊図」・「船窓小戯帖」・「亦復一楽帖」(いずれも重要文化財)などの代表作はこの時期に集中。絵以外にも『豊後国志』の編纂、画論『山中人饒舌』の著述など活躍は多岐にわたる。弟子に高橋草坪(1804?―35)、帆足杏雨(1810―84)らがいる。

啓蒙思想家 福沢諭吉
 福沢諭吉(1835―1901)は、最初蘭学を学ぶため長崎へ遊学、大阪の緒方洪庵の適塾でさらに蘭学に没頭する。25歳で江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾(慶応義塾の起源)を開くが、翌年、これからは英語の時代だと自覚して英学へと学問の方向を転換。幕末には幕府の使節に随行し渡米2回、渡欧1回を経験、世界に視野を広げる。渡欧での見聞をもとに著わした『西洋事情』はベストセラーとなった。
 明治維新後は、新政府からの招きを断り在野で活躍。『学問のすゝめ』・『文明論之概略』などの著書を通じて、日本の独立と国際社会における平等を国民に訴えた。慶応義塾の門下生には、大分県出身で日本を代表する学者・政治家・実業家が多い。小幡篤次郎(1843―1905)・矢野文雄(龍渓1850―1931)・中上川彦次郎(1854―1901)・朝吹英二(1894―1918)・荘田平五郎(1846―1922)らである。

近代・現代の逸材
 名曲「荒城の月」・「花」の作曲者滝廉太郎(1879―1903)は、東京音楽学校卒業後ドイツへ留学するが、風邪をこじらせ帰国、23歳の若さで没。大分市万寿寺の墓の横には音楽学校同窓有志の建てた「嗚呼天才之音楽家 瀧廉太郎君碑」がある。大分からは、立川清登(1929―85)らすぐれた声楽家が多数出ている。日本の民族的音楽の創造に力を注いだ作曲家清瀬保二(1900―81)は宇佐市の出身。園田清秀(1903―35)は絶対音感早期教育を唱えた。
 芸術分野では彫刻の朝倉文夫(1883―1964)、日本画の福田平八郎(1892―1974)、洋画の片多徳郎(1889―1934)・宇治山哲平(1910―86)、竹工芸の生野祥雲斎(1904―74)ら多士済々。
 文学では口演童話家久留島武彦(1874―1960)、女流作家野上弥生子(1885―1985)、作詩家吉丸一昌(1873―1917)、小説家林房雄(1903―75)ら。
 スポーツでは69連勝の名横綱双葉山定次(1912―68)、“荒法師”玉乃海代太郎(1923―87)、“火の玉投手”荒巻淳(1926―71)ら。
 政財界では大井憲太郎(1843―1922)、井上準之助(1869―1933)、重光葵(1887―1957)ほか多数いる。このほか学界、軍人関係なども数えきれないほどの人材が輩出しており、現在も各分野でたくさんの県出身者が国内のみならず広く海外でも活躍している。
 
前野良沢


大蔵永常((c) 先哲資料館)


田能村竹田


田能村竹田作品


福沢諭吉


矢野龍渓((c) 先哲資料館)







滝廉太郎


朝倉文夫





先哲資料館(県立図書館)