目次 特集 Preserve Nature 「自然保護」ってなんだろう?
おおいた文学紀行 「雪の夜」−織田作之助
先人の軌跡 横田穰−日出生台植林の父
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おおいた文学紀行 別府 流川文学 織田作之助 雪の夜

昭和初期、湯の町別府には文人の往来も多く、中でも流川通りは小説の舞台によく取り上げられた。
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昭和4〜5年頃の海岸からみた流川通り・左側の高い建物が物語の舞台となった”カフェ・ビリケン”/写真提供:別府市在住 安部浩之氏

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昭和16年発行「文芸」表紙
(「雪の夜」掲載)

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現在の海岸からみた流川通り・左手前に「カフェ・ビリケン」があった。

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織田作之助や徳田秋声らの作品を展示する「流川文庫」

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竹瓦かいわい路地裏散歩のスタート、駅前通りの食事処「ビリケン」入口のビリケン神像

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「流川文学発祥の地」の石碑

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△参考文献
  『定本織田作之助全集第二巻』(文泉堂書店)小野茂樹著
  『大分県と文学』松本義一著
  『大分文学紀行』(アドバンス大分)
別府八湯・竹瓦倶楽部
 事務局連絡先 0977−24−5000
      (ヒットパレード内 担当栗田氏)
 戦災を免れた別府市には大正時代の建物や昭和初期の路地裏が残っており、最近はそれらを見て回る別府八湯ウォークが人気を集めている。竹瓦かいわい路地裏散歩や山の手レトロ散策などで、その一つに「流川文学」がある。湯の町別府には文人の往来も多く、小説の舞台になったが、中でも別府一番の繁華街だった流川通りはよく取り上げられた。
 その代表作は織田作之助が昭和16年に発表した「雪の夜」である。「流川文学」の提唱者・河村建一氏(別府八湯・竹瓦倶楽部代表世話人)の案内で「雪の夜」の舞台を歩いたが、まずはこの短編のあらすじを−。

 「大晦日に雪が降った。朝から降り出して、大阪から船の着く頃にはしとしとと牡丹雪だった。夜になってもやまなかった」

 「雪の夜」の書き出しだ。「大阪から船の着く」港は、現在の国際観光港ではない。明治4年に開港、大正9年に桟橋が完成し、昭和35年に移転するまで楠町にあった旧別府港のこと。流川通りの終点にあった。
 別府という温かい土地には珍しい大雪だった。雪は重く降りやまず、例年見かける暦屋や注連縄、蜜柑売りも出ていなかった。

 「しかし、さすがに流川通である。雪の下は都会めかしたアスファルトで、その上を昼間は走る亀ノ井バスの女車掌が言うとおり『別府の道頓堀でございます』から、土産屋、洋品店、飲食店など殆ど軒並みに皎々(こうこう)と明るかった。
 その明かりがあるから、蝋燭(ろうそく)も電池も要らぬ。カフェ・ビリケンの前にひとり、易者が出ていた」


 この易者は坂田という。5年前までは大阪でまじめに印刷業をしていたが、クリスマスカードを引き受けたのをきっかけにそのキャバレーに通い始める。瞳(本名照枝)という女に熱をあげ、ついには印刷機まで売って貢ぐ。照枝には松本というなじみ客がいたが、自分のため全財産をはたいた坂田に同情して、二人は東京へ出奔する。
 照枝は妊娠していた。坂田は松本の子ではないかと疑うが、その子は流産し、それがもとで照枝は病弱となる。坂田は大道易者となり生活を支えたが、照枝は別府へ行って死にたいという。一年後二人は別府へ流れ着いて、郊外のゆで卵屋の二階に住み着いた。坂田は昼間は飲食店を回って空き瓶を集め、夜は易者に立つというその日暮らしだった。
 大晦日のこの夜も黒いマントを雪で真っ白にして、辛抱強く客を待った。そこへ一台の自動車が徐行してビリケンの横町を折れ、フグを食わせる料亭(なるみ)に入った。2時間後、女4人を引き連れた男が料亭を出てきて、坂田に気づく。男は松本だった。
 家業の鉄工所を継いだ松本は軍需景気で羽振りが良かった。今からコーヒーを飲みに行くが、一緒にどうかと坂田を誘った。

 「坂田は即座に応じきれなかった。夕方から立って、十時をすぎたいままで、客はたったの三人である。見料一人三十銭、三人分で…と細かく計算するのも浅ましいが、合計で九十銭の現金では大晦日も越せない、と思えば、何が降ってもそこを動かない覚悟だった。家には一銭の現金もない筈だ。いろんな払いも滞っている。だから、珈琲どころではないのだ」

 しかし女たちに促されて断りきれず、坂田は店を畳む。そして「珈琲ならどこがよろしおまっしゃろ。別府じゃろくな店もおまへんが、まあ『ブラジル』やったら、ちょっとはましでしゃろか」と坂田は土地の女の顔を見て、通らしく言った。そんな自分が哀れだった。
 坂田らは、「キャラメルの広告塔の出ている海の方へ、流川通りを下って行った。道を折れ、薄暗い電灯のともっている市営浴場の前を通る(中略)そのあたり雪明かりもなく、なぜか道は暗かった。(中略)いきなりあたりが明るくなり、ブラジルの前まで来た」
 店にはいると坂田はコーヒー6人分をさっさと注文、自分は二口か三口すすっただけで、最後は松本の止めるのを振り切ってその日の収入すべてで支払いを済ませた。
 「背中をまるめ、マントの襟を立てて、坂田は海岸通を黒く歩いていた。海にも雪が降り、海から風が吹きつけた。引き返してもう一度流川通に立つ元気も今はなかった」
 「雪の夜」は坂田、松本、照枝の3人の絡みで、落ちぶれた人間の悲しいまでの対抗心と自尊心を描いている。 織田作之助は大正12年に大阪に生まれ、昭和15年「夫婦善哉」でデビュー。短編の名手として才能を発揮したが、22年、34歳で病没した。実姉の山市千代夫妻(「夫婦善哉」のモデル)が昭和9年、大阪から別府に来て、流川通り4丁目に化粧品店、後に割烹を開いた関係で、別府に2、3回来たようで、別府を舞台にした作品にはほかに「湯の町」と未完の「怖るべき女」がある。
 カフェ・ビリケンは、一階が食堂、二階がキャバレー、三階がダンスホールのモダンな建物で、現在の流川通り2丁目のマルショクの地にあった。港の防波堤にあったキャラメルの広告塔や市営浴場・霊潮泉、ブラジルも今はない。霊潮泉の地には別府商工会館が建ち、ブラジル跡は空地になっている。しかしまだ所々に古い家や町並みは残っている。
 河村氏は楠銀天街の喫茶・しんがいに「流川文庫」として、織田作之助や徳田秋声らの作品を展示、昨年近くに「流川文学発祥の地」の石碑を建てて顕彰に努めている。竹瓦かいわい路地裏散歩のスタートになる駅前通りの食事処「ビリケン」はカフェ・ビリケン同様、入り口には福の神とされる「ビリケン神像」が客を迎える。
 古い路地裏は残っているが、かつての華やかな別府の表の顔は、時代とともに移り変わり、今はしのぶ面影もなかった。
(大分合同新聞社論説委員長 挾間 久)
「雪の夜」は坂田、松本、照枝の三人の絡みで、落ちぶれた人間の悲しいまでの対抗心と自尊心を描いている。


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