目次 特集 Preserve Nature 「自然保護」ってなんだろう?
おおいた文学紀行 「雪の夜」−織田作之助
先人の軌跡 横田穰−日出生台植林の父
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先人の軌跡 日出生台植林の父 横田穣
水資源確保と産業を興すために森林造成の一大緑化事業を決意


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人見岳/植林はこの山から始められた

 

 

 

 

 

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立石山
 日出生台は大分県のほぼ中央、湯布院、玖珠、九重の三町にまたがる東西8キロメートル、南北4キロメートル、標高600から800メートルの溶岩台地である。現在、立石山、福万山、平家山、人見岳など日出生台の周囲の山々には広大な森林が広がっているが、実に25年の長きにわたってこれらの山々に植林事業を続け、森林を造成したのが日出生台植林の父として慕われた陸軍軍人横田穰(よこた・みのる)であった。
 明治中期頃までの日出生台は土壌が浅く、土地も乾燥して耕地には適していなかった。森林も失われてぼうぼうたる草原となっており、枝状にのびた谷間の水田に依存するわずかな農業集落があるだけであったという。
 明治32年(1899)夏、陸軍軍人数名が日出生台に現れたことにより、この地に大きな転機が訪れる。日清戦争後の当時の国際情勢から、軍備拡張に伴う大規模な演習地が求められており、日出生台に白羽の矢が立てられたのである。翌明治33年には陸軍の演習が始まったが、その後演習場の規模拡大に伴って演習場主管(管理責任者)を置いて管理させることとなった。その初代演習場主管が横田であった(明治43年)。
  横田は、慶応元年(1865)徳島県麻植(おえ)郡川島町に、漢方薬製造を家業とする横田家の長男として生まれた。上京し、画家を志して日本画家の川端玉章に入門するが、後に軍人となっている。日清戦争、日露戦争に従軍した後、明治40年に42才の若さで予備役を命じられるが、その人物と才能を惜しんだかつての上官の推挙により日出生台演習場の初代主管に任命され、明治43年5月に赴任した。
 横田が演習場の管理責任者となって、まず心配したのが水の問題であった。日出生台の周囲には東に立石山・日向山、南に福万山・平家山、北に人見岳などの山々があるが、わずかに雑木が点在しているにすぎす、ほとんどはげ山であった。台地には、日出生川、松木川といった小さな川しか流れておらず、飲料水などは遠くから馬車で運ばねばならなかった。このような台地に大部隊が入り込んで演習を行うことになると、飲料水、洗たく用水、浴場用水が不足する。そればかりか、水の不足は住民の生活に多大な影響を与え、防火対策上も問題となる。そこで、横田は演習を行う部隊と地区住民の水資源確保のため、また、治山治水や用材・薪炭の獲得をも期待して、周囲の山々に植林し、森林を造成する一大緑化事業を決意したのである。また、植林には産業を興すというもう一つ別の目的があった。演習場の拡張に伴い演習場内の地区の移転が実施されていたが、二,三の地区は先祖伝来の土地を守ろうとし、移転先での生活を不安がって移転に応じていなかった。横田は、産業を興し、地区の人々に希望を持ってもらうことが必要だと考えたのであった。
 横田は連日、戸別訪問をして産業の必要性を説き、移転するよう説得を続けた。その心労は容易ならざるものがあったが、最終的には演習場内の集団移転が可能となった。演習に支障がない周囲の山々の植林計画が立てられ、まず人見岳から植林が始められた。しかし、元々演習場の管理の一環として植林が想定されていたわけではなかったので、軍からは苗木代や植林に要する賃金などは支出されず、苗木代は横田の月給と恩給の中から割かねばならなかった。地区住民は、植林によって牧野が無くなるなどとして協力的ではなく、初期には相当な苦労を強いられていた。

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植林を終えたころの横田山
(写真提供 大分合同新聞社)
現在の横田山

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福万山〜平家山

日出生台奨励会や婦人会を設立し、夫婦で地域の活性・発展につくす。

 横田は、演習場主管としての職責を果たすことはもちろん、地区の一員として生活にとけ込み、その発展にも尽くしている。吉村好市さん(82)=玖珠町日出生=は当時の横田を知る数少ない一人だが「私たちが風邪をひいたり、軽い怪我をした場合には横田さん自ら病状をみてくれて、薬をくれるなど、大変親切にしてくれました。また、地区の気持ちをよくくんでくださり、地区移転問題などでは辞表を懐に入れながら軍の上層部と交渉されたと聞いています」と語る。
大正12年(1923)2月には、散在している地区の結束を図るため「日出生台奨励会」を設立した。奨励会では、兵舎から出る馬ふんを水田に用いて収量増に多大な効果を挙げたり、消防組合を組織して、消火、防火、特に山火事に対する訓練なども行ったりしている。
 奨励会と同時に婦人会も結成され、横田夫人が代表者となって、講話や料理講習会などを催している。さらには、娯楽に乏しい地区の人々のため、青年達が高齢者や女性を招待して素人演芸を披露する「ニコニコ会」を催したりもした。横田は多芸の人でもあり、歌を詠み、琵琶や三味線を弾き、「ニコニコ会」でも進んで披露した。
また、かつて画家を目指したほど画才もあり、舞仙(ぶせん)と号して達磨の絵を最も得意としていた横田は、地区住民の還暦や節句の際に作品を贈る一方、各地で画会を催し、土産として兵隊に売るなどした。これらの収入もまた苗木代に充てられた。
このような人柄から、地区住民からは仏様、軍の兵隊からは天神様と呼ばれ慕われた。日出生台地区の生活改善は大いに進み、大正年間に内務省から2度優良自治の表彰を受けている。
 はじめは植林に不満を抱いていた人々も横田の人柄に触れて彼を慕うようになり、植林にも協力するようになっていった。陸軍も横田の熱意と業績を認め、大正初期にはわずかながらも造林予算を計上して植林事業を援助するなど植林計画も次第に軌道にのり、久留米や国東で買った苗木を植え込んでいった。
下刈り、除伐、枝打ち、間伐などの手入れは、演習場内を十五の地区に分け、それぞれに置かれた責任者によって、演習の合間に実施された。
植林に併せて日出生台周辺の道路も整えられていった。明治末期から大正初期にかけて現在の玖珠町、九重町、湯布院町、安心院町から日出生台に入る道路が地区住民と軍によって新設、改修され、その後県道となっている。
 それでも、すべてが順調であったわけではなかった。クヌギやケヤキは生育が悪く、樹種を変更せざるを得なかった。また野ねずみの害がひどく、婦人会の協力を得ながら巣穴一つひとつに猫いらず入りのだんごを入れて駆除している。
植林事業は進み、やがて、当初の目的であった水資源は、各地の谷間で湧水するまでになった。また、日出生台では、かつては大雨のたびに土壌の浸食が進み、道は川と化すほどであったが、植えた樹木が成長するにつれ、これらの災害も解消されていった。
当初の目的であった水も確保でき、後進に道を譲るため、横田は大正12年(1923)に退官を願い出るが、これを聞いた地区住民が引き留め運動を起こして軍に留任を要請した。その後も再三退官を申し出るがその度に慰留され、昭和10年(1935)7月、70歳となってようやく退官を許された。この間25年にわたり、スギ、ヒノキ、松の苗木450万本、1500ヘクタールに及ぶ大植林を完遂したのであった。
退官後、横田は別府市に移り住んだ。横田を懐かしんで日出生台から訪ねて来る者も多く、余生を別府で安らかに過ごし、昭和25年(1925)5月6日、85歳で亡くなっている。
 この植林事業は周辺町村の植林意欲をも刺激し、またこれほど広大な原野の解消は全国的にも類をみないといわれている。この大造林は、筑後川、大分川、駅館川などの水源を豊かにし、利水事業の振興や災害防止など、国土の開発と保全にも大きな役割を果たした。
 戦後、横田の植林した地は大蔵省所管となったが、大分県が、戦後復興に必要な大量の木材を確保するため、国から2700万円で日出生台の山で育った樹木の払い下げを受け、県営林に編入して伐採にかかった。その後、新たな植林が行われているが、伐採と植林に従事した高名邦夫さん(67)=玖珠町日出生=は「伐採や植林は鋸や鎌を使っての作業ですから怪我などもあってかなり苦労しましたが、横田さんたちが植えたスギはとても立派に育っていました。植林した範囲は私たちが作業した場所よりはるかに広かった。横田さんの偉大さを痛感しました」と語ってくれた。
 彼を慕う日出生台奨励会の人々は、碑を建てて彼の徳と功績を後世に伝えることとした。この像は一度撤去されたが、昭和37年3月に小野原ダムにかかる橋のたもとに再建されている。なお、小野原ダムの北西に位置する横田山は、横田の功績をたたえて名付けられたものである。横田穰の名とその業績は、横田山の名とともに永遠に残ることであろう。
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おだやかなやさしい人柄がよく表れた横田主管の肖像「日出生台の歴史 小野原分校のあゆみ」から転載

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ニコニコ会に出演した横田主管とトミ夫人
(吉村克行氏所蔵)

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「玖珠町史」「日出生台の歴史 小野原分校のあゆみ」「2000年度 研究紀要 主体的に思考し、創造力豊かな子どもの育成」日出生小学校で横田の業績を知ることができる

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福万山の伐採状況
  達磨を得意とした横田主管の掛軸  

掛軸写真 掛軸写真 掛軸写真 掛軸写真
衛藤芳春氏 所蔵 衛藤芳春氏 所蔵 吉村克行氏 所蔵 吉村克行氏 所蔵

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参考文献 ・”横田穰”日本農林漁業振興会「明治百年農林漁業顕彰業績録」 昭和43年
・大分県林政課「大分の県営林」 昭和36年
・永松秀敏 (社)大分県地域経済情報センター「シリーズ人物〜おおいたを支 えた人々〜」
・大分県秘書広報課「大分県の産業先覚者」 昭和45年
・日出生台の歴史、小野原分校のあゆみ編集委員会「出生台の歴史、小野原分 校のあゆみ編集委員会」 平成2年



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