目次 特集 すくすく育ておおいたの子どもたち!
おおいた文学紀行 白秋を恋した女
先人の軌跡 賀来 飛霞
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おおいた文学紀行 別府 流川文学おおいた文学紀行 香々地町 白秋を恋した女・江口章子 北原白秋と運命的な出会いをし、数奇な運命を生きた情熱の詩人

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江口章子肖像(香々地町資料から転載)

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香々地町作成資料
(町教育委員会にて500円で販売)

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紫烟草舎の白秋と章子
貧しくとも幸せな生活だった。(香々地町資料から転載)

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托鉢姿の章子
観音堂増築のために托鉢して資金集めをしている(香々地町資料から転載)

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江口章子が巡礼の際に着ていた着物(松見時也氏所蔵)

江口章子ゆかりの地 香々地町/大分市
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長崎鼻歌碑
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少林寺(大分市木ノ上)
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浄雲寺(大分市松岡)
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威徳寺(大分市勢家町)
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少林寺建て替えられた茶寮
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江口家・土蔵写真(香々地町資料から転載)
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江口章子生家跡
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江口家墓碑
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江口家酒蔵の名残(香々地町資料から転載)

 
 昭和53年10月、大分県民芸術文化祭で公演された舞台の表題である。
  私が章子の舞台化を思い立ったのは、原田種夫氏の「さすらいの歌」を知り、章子の数奇な運命に驚愕したのがきっかけ。書店に注文したが絶版というので古本を探したとき、西本秋夫氏の「北原白秋の研究」「白秋論資料考」という大著に出会った。氏は北原白秋研究の第一人者として著名。傍線を随所に引いて汚した2冊は今も私の座右にある。この名著なくして江口章子は語れない。
  53年2月26日に、章子の歌碑建立除幕式が香々地町の長崎鼻であった。建立に奔走されてこられた松見時也氏にお会いしたのは初めて。松見氏は私に西本秋夫氏を紹介してくださった。西本氏からはその後何度もお便りをいただき、10月の公演当日には東京からご来分、舞台上から熱いメッセージをいただいた。
  舞台ラストで歌った歌は、建立された歌碑に刻まれた歌。

ふるさとの
  香々地にかへり 泣かむものか
    生まれし砂に 顔はあてつつ

 章子は、大正5年白秋と同棲し千葉県葛飾に住む。6年に上京、7年に小田原お花畑に移転、北原家入籍。木菟の家新館建築祝宴の席でのいさかいで別離。5月25日離婚。その後いくつかの遍歴の途次、昭和6年発病。京都帝大病院精神科に入院(病名、早発性痴呆症)、1ヶ月で退院。9年から12年にかけ、詩集「追分の心」出版。信州蓼科高原に観音堂建立、托鉢して資金集め、12年8月入仏式。蓼科からの帰途、車中にて脳溢血で倒れる。3年詩文集「女人山居」出版。先述の歌碑の歌は、信州蓼科観音堂にいた章子から大分県中津市稲堀にいた縁者利光ふみ子あてに送られたハガキ(昭和12年9月20日消印)の文面に書かれた望郷のうたである。
  作家の瀬戸内寂聴氏がNHKの仕事で国東にみえ、NHK大分で演出の仕事をしていた大神幸男氏から私の舞台の話を聞いたとかで、大分市内のレストランで昼食をとり懇談した。私の脚本が欲しいといわれるので差し上げた。
  後日、寂聴氏の脚本、渡辺美佐子主演で秋の芸術祭参加作品(NHK東京、ラジオドラマ部門)「向日葵の女」の放送があると大神氏から連絡があった。当日、妻と2人でラジオを聞かせてもらった。それから章子のテレビドラマ化が数本民放で続いた。寂聴氏の「ここ過ぎて」が文芸誌「新潮」に掲載され始め、掲載後498頁の単行本となり、文庫本上、下となって新潮社から出版された。白秋をめぐる3人の妻、福島俊子、江口章子、佐藤菊子のことが克明に記述されているが、章子の頁が大半を占めている。
  明治21年(1888)大分県西国東郡香々地町(当時岬村)で江口家の三女として誕生。江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業で、豊前第一の大分限であった。近所の小学校通学に使用人が付いたほど。大分市に県立女学校が設立されると四期生として受験、首席で合格。母サツキの実家大分市威徳寺に寄宿し通学した。卒業式前、授業参観にきた安藤茂九郎(弁護士)に見染められ結婚、夫が検事になり柳川に転勤。酒乱、女遊びの夫に愛想をつかし離婚、香々地に帰るがすぐに上京。女性解放を叫ぶ平塚らいてうの青踏社に入り野上弥生子、伊藤野枝、原阿佐緒、岡本かの子、尾竹紅吉などと交友を持ち、生田花世の夫生田春月の紹介で白秋に会う。
  北原家は柳川の大火で大酒造屋の工場、家を全焼し、一族郎党白秋を訪ね上京してきたので、北原家は貧乏のどん底にあった。貧しさに耐え歌を求めた白秋と章子は同棲し、千葉県葛飾真間に住み、紫烟草舎の生活を始める。白秋の「雀百首」「雀の卵」は、二人の愛の結晶から生まれた、白秋作品中の最高傑作と言われている(飯島耕一著「北原白秋ノート」より)。
  大正7年、小田原お花畑に移転したころ、鈴木三重吉が白秋を訪ね、芥川龍之介、江口渙と話し合い、子どもの文芸誌「赤い鳥」を出版するのでと協力を依頼。6月に創刊号出版、芥川は「蜘蛛の糸」を書き、白秋は「栗鼠、栗鼠、子栗鼠」と「雉子車」を寄せた。この創刊号に「かたぎの実」という白秋自選の推称童謡が載っており、作詞者は、槇田濱吉となっている。

いつちんかつちん
樫の実
眼病の小守が来て拾ふ
いつちんかつちん
樫の実
拾ふはしから又おちる
いつちんかつちん
樫の実
うしろのお山に
陽がくれた。

 病ん目は西国東地方の方言。章子が出版した「追分の心」「女人山居」の中にこの童謡詩が載っている。鈴木三重吉は傑作だとほめている。後年、白秋が「赤い鳥」への投稿詩が少ないため、自作の詩に架空の人名をつけて載せたと語っているが、章子のかいた詩とみてまちがいないと、西本秋夫氏も寂聴氏も指摘している。
  「赤い鳥」次号に白秋の「雨」がのった。

雨がふります。雨がふる。
遊びにゆきたし、傘はなし。
紅緒のお下駄の緒が切れた。
− 中略 −
雨がふります。 雨がふる。
けんけん子雉が、いま鳴いた。
子雉もさむかろ、さみしかろ。
             
− 以下略 −

 初めての取材で江口家の庭に立ったとき、遠くの小高い山から鋭い鳥の鳴き声を聞いた。松見氏に聞くと、雉の声だと言う。そのとき「雨」の歌詞が頭をよぎり、あれは章子の歌だと直感した。これも西本秋夫氏の「白秋論資料考」、寂聴氏の「ここ過ぎて」の中で、共作ではないかと指摘されている。
  「赤い鳥」運動に賛同した作家は、小山内薫、野上弥生子、島崎藤村、高浜虚子、谷崎潤一郎、小川未明、江口渙、秋田雨雀、西条八十、佐藤春夫、三木露風、山田耕作、宇野千代、木下杢太郎、林芙美子、広津和郎などが星のように居並んでいる。
  私の舞台では、「雨」は章子の作だと断定し上演した。多くの観客の涙と共感の拍手をいただいた。
  江口家の家の中に人の気配はなかった。隣に立つ白壁の土蔵は、章子が晩年京都の養老院から帰ってきて最後に寝起きしたところだという。原田種夫の「さすらいの歌」の終わりに「1年3ヶ月、江口章子は極端に言えば糞尿にまみれて、座敷牢のなかで生きた。危険なので寒くなっても火の気ははいらなかった」とある。昭和21年10月29日の朝、雪の降りしきる中で、章子はひとり息絶えていた。59歳であった。枕元には手垢で黒光りした白秋の「雀百首」が残されていたという。
  白秋は、太平洋戦争が始まって1年目の17年11月に死んだ。枕頭には陸軍省から贈られた将官刀が飾られており、青山斎場には帝国芸術院、日本文学報国会、大東亜文学者大会、日本文学報国会詩部会、日本少国民文化協会、日本音楽協会などなどの弔辞が捧げられ、大木惇夫作詞、山田耕作作曲の「挽歌」が合唱団により場内に流された。会葬者は3,000人、勲4等瑞宝章授与。
  白秋に捧げた章子の歌がある。

ひとときの 
  君の友とて生まれきて
    女のいのち まこと捧げん


江口家の墓所は、長崎鼻の対岸の丘の中腹にある。だらだら坂の小道を上がると、小大名の墓かと思わせる苔むした大小の石の墓が整然と並ぶ空き地に出る。江戸時代からの一族の墓所だ。探したが章子の墓がない。松見氏に問うと、墓地の片隅、木陰になった場所に置いてある人頭大の石を指した。「章子の墓ですか」「そう聞いてます」松見氏と短い言葉を交わした。”おまえはこの墓所には入れないのだ“という江口家の怒りの焔がその石を包んでいるようにみえた。
  私はその日の日記に”石一つ 章子と知りて 涙落つ“と記した。
江口家の跡は平地になって今は何もない。
  この稿の取材のため、大分市の章子にゆかりある諸寺を訪ねた。大分高女に通学していた市内勢家町の威徳寺、母方の実家であるが章子の痕跡は全くなかった。大分高女跡に戦後建った県庁の巨大ビルに寄り添って「大分県教育発祥の地」の碑が立っている。
章子が病気と闘いながら西国巡礼の帰途訪ねた大分市松岡の浄雲寺では、古刹が大切に残され、住職のお母さん相馬さんに、おばあちゃんから伝え聞いたという章子の印象を聞かせてもらった。次に大分市内の木ノ上にある少林寺を訪ねた。章子はここで暫く寄宿し、広い寺内の小高い位置から平安開基という古い歴史を持つ霊山と対し、山裾を流れる七瀬川の清流で遊び、22首の歌を遺している。章子が寄宿していたという数寄屋風の茶屋はハイカラな建物に替わり、茶寮という名が刻まれていた。章子の痕跡はここでもなく、禅宗は代替わりになると本山から次の住職が派遣されるそうで、想い出を語れる人はなかった。
  皮肉にも境内に、白秋がみえたとき詠んだ歌が碑となって堂々と立っていた。

山かげの 
  ここのみ寺の かえるては 
   ただあおゝし 松にまじりて


 章子を憶う心情が隠語として隠されていないか問いかけてみたが、それはなかった。

日本演出者協会正会員
大分県民演劇・会長 中沢 とおる



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