津村信夫 妻昌子さんと善光寺の階段下にて撮影されたもの
(信濃毎日新聞社刊「戸隠の絵本 津村信夫 その愛と詩」から転載)
金鱗湖の中にひっそりと立つ鳥居
中谷健太郎氏(右)と岩男淳一郎氏 金鱗湖畔にて

由布院での一月ほどの時間、それはいかばかり美しく、
いかばかり麗しく、いかばかり夢のようであったろうか。

 まるで映画のワンシーンを想わせるこの詩の作者津村信夫が現在の湯布院、当時の北由布村を訪れたのは、昭和3年のことである。彼は慶應義塾大学の経済学部予科に入学後、肋膜炎を患い、別府へ転地療養し、ホテル亀ノ井(当時)に滞在した。由布院へ足をのばしたのはその間のことである。
  由布院の滞在先は、当時油屋熊八がVIP用の別荘として金鱗湖畔に建てた亀楽荘であった。亀楽荘は現在の亀ノ井別荘であるが、主人の中谷健太郎氏によると、若き津村は、かれこれ一月もの間別荘に起居し、その間興の赴くままに、湖畔を散策したり、温泉につかったりの毎日だったという。
  考えてみると、昭和初期の当時といえば、別府観光の父でもあり、九州横断観光ルートの礎を築いた油屋熊八が、さかんに由布院の宣伝に乗り出した時期でもある。事実、津村が由布院を訪れた昭和3年の6月には、熊八の手による『由布院仙郷』なる冊子が刊行され、そこに由布院の「朝かすみ」つまり朝霧が詠われている。
  それはともあれ、熊八の経営する別府亀ノ井に泊まっていた津村が、由布院の評判を耳にしないわけはなく、津村もまた当時の著名な作家や政財界人と同じように由布院に赴いたのであろう。おそらく整備されてもいない山中のガタゴト道を、熊八所有の乗合自動車にゆられること数時間、眼下に突然ひらけた由布院盆地を目にした津村は、何を想ったか。その時すでに、盆地は霧に埋まっていたのだろうか。少なくとも、若き日の詩人の目に、まぎれもなく灼き付けられた風景、それこそ冒頭の鄙の歌にみる霧の由布院であるのは間違いあるまい。なぜなら詩人の由布院滞在から15年以上の歳月を経て、彼の晩年、36歳で病没する昭和19年にこの鄙の歌は書かれたからである。つまりそれだけの年月、詩人はずっと詩に詠われた風景を胸に温めてきたのだ。
  若くして病を得、戦争の足音が近くに聞こえてくる不安の時代、その不安から逃れるように訪れた地、由布院。その由布院での一月ほどの時間、それはいかばかり美しく、いかばかり麗しく、いかばかり夢のようであったろうか。

霧のなかで
娘が水を汲んでゐた−

 そう、その娘は、彼にとって目に沁みるほどだったろう。

霧のなかで
娘が花を摘んでゐた
身も心も淡く濡れそぼつて−

 濡れそぼっていたのは、おそらくほかの誰でもない、詩人津村信夫その人であろう。
  それにしても、由布盆地の朝霧の深さ、濃さである。先の中谷氏の伯父にあたる雪博士でもあり、名エッセイストでもある中谷宇吉郎が書いてあるとおり、「窓から部屋の中へはいってくる」ほどのもので、その霧がひときわ濃いのは、やはり金鱗湖一帯である。
  昔から金鱗湖は湯布院の底霧の発生源と言われており、時として霧のため湖と陸との区別すらつかないこともある。
  津村は、たぶんその霧の中を歩いたのだ。その霧に煙る山里で花を摘む娘に出会い、

 村のはづれでは
 若者の歌が
 夕べの雲のやうに湧いてきた−

   そんな青年にも出会ったのだ。そしてその印象はあまりにも強く彼の目に灼き付けられ、そのイメージが15年の歳月を経て、ようやく言葉として刻まれ、美しく生まれ出たのである。
津村信夫は明治42年神戸に生まれ、神戸のモダンな西欧的雰囲気の中に育った。若いころから短歌に親しみ、「山の上のゴルフリングの夕あかり異国の少女球をうちゐる」など短歌雑誌『アララギ』に投稿し、そのモダンさに選者が唸らされたという。昭和9年詩人丸山薫、堀辰雄、三好達治などの編集による第二次「四季」の刊行に立原道造とともに参加。翌十年には早くも処女詩集『愛する神の歌』を上梓。わけても『小扇』と題する一編

−指呼すれば、
  国境はひとすぢの白い流れ。
  高原を走る夏期電車の窓で、
  貴女は小さな扇をひらいた。−

 は、津村の詩の愛好者には広く知られるもので、私自身は『私弁』という一編が愛唱詩の一つである。

−春は木蔭のみ多い道をたどつて。花ひとつかざす心は喪われた。私の歩調は何處から、わたしの口笛は何處へ。春鳥が私に告げる。「この美しい、いとなみ、樹々のヘアネットのもとで、君もおのづからなる歌を歌い給へ」と。託すべく、歌うべく、私に言葉はないか。既に、すでに、空に舞ふものを、舞ひまふものを、私は見喪つた。−

  昭和17年第二詩集『父のゐる庭』を上梓。しばしば国語の教科書に登場する『父が庭にゐる歌』が有名。昭和19年6月、アディスン氏病に犯され、北鎌倉の自宅において死去。享年36歳であった。
  鄙の歌は、生前刊行された詩集には収められておらず、没後に刊行された『さらば夏の光よ』の中の一編である。この書名は津村の実兄で映画評論家で著名な津村秀夫によるらしい。そのタイトル自体がいかにも映画的で微笑ましいが、信夫の詩もまた鄙の歌のように映画的でもある。兄弟揃って映像的感覚にすぐれていたというべきか。
  いずれにしても、津村信夫は近代日本の生んだたぐいまれな詩人である。その言葉の浪漫性、イメージの喚起力、すべてにおいて立原道造と並び称されるべき詩人である。その津村の詩が最近文庫本では見られない。そろそろ津村の詩を文庫本にと思うのは筆者だけだろうか。
  最後に津村の追悼に寄せた太宰治の惜別の辞を紹介してこの小文を終わる。
「……もう、わかれてしまったのである。私は中原中也も立原道造も格別好きでなかつたが、津村だけは好きであつた」

 

  劇団立見席主宰 & エッセイスト           岩男 淳一郎 



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目次 特集/人が輝く 暮らしが輝く ベンチャービジネス
対談/御手洗冨士夫キヤノン株式会社社長
おおいた文学紀行/津村 信夫・鄙の歌
先人の軌跡 /南 一郎平 −宇佐市−
大分県立芸術会館ギャラリー

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