広瀬井路取水口付近(院内町広瀬)
何事もなかったかのようにとうとうと流れる命の水
水神社(院内町北山)
慶応2(1866)年8月、工事発起人の庄屋たちが寄進した石祠(水神社)
柴滝の間風(まぶ。トンネルのこと。宇佐市拝田新洞)南一郎平が拡張したもの。後年アーチ水路が架けられたため、廃棄された。
宇佐市下拝田柳ヶ谷付近の井路。この少し下流は、赤土層や暦層のため、トンネル工事は困難を極めた。
南尚神社(宇佐市高森) キリスト教徒の南一郎平が神社に祀られている。
石祠には西暦で井路完成までの経緯が刻まれている。奥の建物は配水会所。
奥田家から宇佐市へ寄贈された南一郎平の書簡
(宇佐市民図書館蔵)
奥田忠氏が自費出版した「郷土の恩人・南尚翁」
 
 20世紀は石油の争奪で戦争が絶えなかった。21世紀は水の奪い合いで世界戦争が起こるのではと言われる。宇佐山郷に広瀬井路を訪ねたその日(3月26日)、テレビニュースはイラクのサマーワで自衛隊による待望の給水支援が始まったことを告げていた。
  国連は2025年に世界の人口は80億人を超えその3分の2が水不足に曝さらされると予測する。水が豊富と言われる日本でさえ水の収奪が始まっていると言うのだ。にわかに信じられぬ話であるが、膨大な農産物の輸入は即世界の水消費つまり水取りにほかならない。
  水がなければ生きてゆけぬ。地球の運命は水が握る。日本の国土を支える水田稲作文化も音を立てて崩れ去る。農業が崩壊すれば文明はやがて静かにその地を去り国は滅びる。それはメソポタミアなど世界四大文明の衰亡の歴史を見れば一目瞭然だ。
  その水に命をかけた男が大分県にいた。南一郎平(宇佐市金屋)がその人。穀倉地帯宇佐平野と言っても周防灘に注ぐ駅館川の下流右岸の台地は平野部と20メートルの高低差があり、水が上がらず土地はやせ、ヒエやアワなどで命をつなぐのが精一杯だった。何とか水が引けないものか。その駅館川上流の津房川が恵良川と合流する約1キロメートル上の広瀬地区(院内町)から取水するほかに道はない。長洲地区(宇佐市)まで全長16キロメートル。右岸の山あいに隧道を通す気の遠くなるような難工事。10メートル進んで1センチ下げるという極めて高い精度を要す土木工事。
  北大バイパスの橋脚を見上げるその側に広瀬の取水口があった。右岸の山すそを走る井路の谷間、成功祈願の水神社など一郎平の足跡が至る所に残されている。「父親が掘ったと言われるこの拝田井路がすべての原点です」と案内役井上治広さん(宇佐市教育委員会)は言った。
  宝暦元年(1751)と言うから253年前、宇佐神宮庁の直轄事業で掘削工事を始めたが屹立する百重岩
(宇佐市。ひゃくじゅういわ)の堅岩を掘削できず、中断。2回目の試みは60年後の文化11年(1814)宇佐神宮領の富田久兵衛と日田疎水の工事経験者矢野與兵衛が8年かかって難攻不落の百重岩を貫通させる。しかし二人は通水を見ず病に倒れる。
  3回目、文政11年(1828)の再開に日田代官塩屋大四郎が乗り出す。この時一郎平の父宗保も立ち上がる。しかし志半ばで他界。「農民を塗炭の苦しみから救え」と父の遺言を守り意を決しての息子一郎平の登場となる。

「農民を塗炭の苦しみから救え」と
父の遺言を守り意を決しての息子一郎平の登場。

  26歳。慶応元年(1865)。最初の工事から既に100年の歳月が過ぎた。トンネルの堀り直しなど膨大な費用捻出に苦しみ、当時府内藩の藩政改革に敏腕をふるう日田の豪商広瀬久兵衛に資金援助を申し出る。一郎平の熱意に打たれた久兵衛は3千両の出資のほか小川徳兵衛、児島佐左衛門という熟練石工も紹介する。
  それでも資金が足りず井出切手の発行などで急場をしのぐが、島原藩の公金返済ができず何度か入牢の憂き目にも会った。時あたかも幕末動乱期。最後の望みを国への直訴に託す。血涙をもってつづられた嘆願書に長崎府の総統は心を動かされ、松方正義・日田県知事にも検分をさせ政府の援助を約束する。
  時は明治3年、ついに総通水式にこぎ着ける。宝暦元年から実に120年という気の遠くなるような歳月をかけての一大土木工事であった。しかしこれで完了したわけではなく、随所に復旧工事を残し、通水以後は国は援助を認めず一郎平は家屋敷から家財道具まで全財産をなげうって井路の完成に導く。
  見かねた近所の人たちは頼母子講をつくって妻と5人の子どもを抱えた一家の生活の援助をしたと言われる。彼の技術力を高く評価した後の首相松方正義は内務省の技師として東京に招く。報酬としてもらった水田8反を全部宇佐神宮に寄進。日本近代国家の国土の基礎づくりになる疎水事業に生涯をささげる。日本三大疎水と言われる安積疎水(福島県)、那須野原疎水(栃木県)琵琶湖疎水(京都府)はいずれも最高技術者としてすべて南一郎平が、かかわりをもっている。
  10年ほど前、安積疎水の源流を訪ねる機会があった。猪苗代湖の水が日本海に流れ出る日橋川に架かる有名な十六橋制水門。水量調節を計りながら阿武隈川まで約50キロメートル。歴史に残る大工事。豊後石工を引き連れ、異郷の地で疎水技術の大輪の花を咲かせた一郎平に思いをはせ、その労苦を思い胸の詰まる思いをしたのを昨日のように思い出す。
  南一郎平再発見のきっかけをつくったのは父親が一郎平の親友だった今は亡き奥田忠さん。十数年前、一郎平が支援者と交わした百通余の書簡集を自費で出版。「郷土の恩人・南尚翁」がその原点である。一郎平と、彼を物心両面で支えた久兵衛。水と格闘した2人の功績は計り知れぬものがある。
  晩年彼は尚と改名。クリスチャンとして信仰に生き大正8年(1919)84歳の天寿を全うする。その人生哲学は「財を天に積み、業を地に残す」であったと言われる。

  元大分合同新聞文化部長             永松 秀敏

 

【参考文献】
◇日本の米(富山和子著 中公新書) ◇南一郎平の世界−疎水の父100年の夢−   (豊の国宇佐塾発行)
◇シリーズ人物−おおいたを支えた人々 (社団法人大分県地域経済情報センター 現産業創造機構発行)
◇毎日新聞 民主帝国アメリカン・パワー第4部   カネと文化 (2003年8月12日)
◇大分合同新聞 金曜ワイド   不毛の大地を沃野にかえた男   (1989年2月17日)
◇月刊誌「ミックス」(大分合同新聞社発行)   一網打尽 安積疎水と南一郎平   (1993年12月号)
◇TOSテレビ「WE LOVE 九州」   荒地に黄金の花が咲く   (九州フジ系ネット。1989年3月5日放映)


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