おおいた文学紀行 中津市・本耶馬溪町・耶馬溪町「耶馬溪と頼山陽」

  およそ二百年近い前の冬の日、柿坂(耶馬渓町)の茶店で目の前の岩峰を仰ぎ、しきりに酒杯をあげる男がいた。折から一人の猟師が大きなイノシシを仕留めて持ってくる。男は茶店の主に料理を頼み、それを賞味しつつさらに杯を重ねた。
  もうお分かりだろう。男は耶馬渓の名付け親、頼山陽。江戸後期の歴史家であり詩人である。文政元年(1818年)、39歳で九州の旅に出て肥前、肥後、薩摩、大隅と回り豊後に来る。竹田で田能村竹田と交遊、日田に広瀬淡窓らを訪ねたのち、12月5日に大石峠を越えて豊前の山国川流域に入った。
中津で旧知の僧、末広雲華に会うためである。

 羅漢寺

  森実村(山国町守実)から宮園村の民家に泊まり、翌日、霧の晴れるのを待って川沿いに下る途中、周囲の風景が彼の目を奪う。「行けば行くほど景色はよくなり、群峰が渓水をはさんで連なってそびえ、春先のタケノコが生え出しているようだ」に始まり、石と水、樹木やコケなどの千変万化の形容が続き、中国の高名な画家の名を列挙して「彼らが描く山水の風容はうそではなかった」と述べる(『耶馬渓図巻記』より。現代語に直す)。
そして柿坂。「数十丈もある岩壁に向かい合った」茶店を見つけ、この良い景色を鑑賞しないわけにはいかないと、腰のヒョウタンのひもを解き、主に暖めさせたのである。『図巻記』はさらに、柿坂から下流の景色を絶賛する。「渓流はたびたび曲がって、山勢にしたがって緩急を示す。あるいは激しい雷のように、あるいは油のように深く澄んで静かに碧をたたえる。流れに峰々が影を落とし、激流ではそれが砕け、緩流ではそのままの形を宿す」と。
  川沿いに屈智林(口の林)を経て、古城(中津市永添)の正行寺で雲華上人に会う。「あなたの郷里の山水は絶佳だ」と言うと、上人が「もっと絶景がある」というので10日に山国谷に引き返し、仙人巌や羅漢寺(本耶馬渓町跡田)を案内してもらった。だが、山陽はあまり感心しない。

正行寺(中津市 永添)
正行寺鐘つき堂 頼山陽の設計と伝えられる

  その夜、寺の前の宿で二人は語り合う。山陽はここで、風景美について「山は水と呼応しなければ生気を帯びて迫ってこない。石は樹を配さなければ蒼い潤いは出ない。耶馬渓に感動しながら仙人巌に感嘆しなかったのはそのためだ。羅漢寺などは人口の風景ではないか」と述べる。翌日、柿坂を再び訪れ茶店でまた酒杯。心地よく酔い、寺に泊まる。12日、雨にけぶる風景の中を山カゴで帰途に就く。途中で酒樽を積んだ馬に会う。雲華が「酒がなくなるだろう」と気を利かせて手配していたもの。ここでまた心地よく酔い、阿保村(本耶馬渓町青)に宿して正行寺に戻る。中津を去ったのは16日だった。 1年後の12月、彼はスケッチ帳を取り出し、これを基に画帳一巻を仕上げた。当時の画壇から激賞される。だが、間もなく所持者が火災に遭い焼失。各方面からの注文を受け、ようやく再度の筆をとったのは29年11月。絵に詩文を付けて『耶馬渓図巻記』が生まれた。その中で「余、足跡、ほとんど海内に半ばす。弱冠にして東遊し、妙義山を得て無双となせり。今馬渓百里、妙義のごときもの幾十峰たるを知らず」として、耶馬渓の山水を「海内第一とする者は私が最初だ」と自負する。
  彼はこの旅で『天草洋』について「雲か山か呉か越か、水天髣髴青一髪」の名詩を残し、竹田から日田へ小国街道(日田往還)を歩いて久住高原で『九重山』の詩をものする。「風力四時に狂う」寒さの中、山や高原の情景と人々の生活を鮮烈に描き、才気あふれる作品だが、世に広まらなかった。あるいは、あの広大な日本一の火山性草原風景そのものが、山陽の器量さえ上回るスケールだったのか。それはともあれ、旅の12年後に図巻をものにした山陽の記憶の鮮明さにあらためて感嘆させられる。言い換えれば、耶馬渓がそれだけ彼を感嘆させたのであろう。
  ただ後世、山陽が山国谷に耶馬渓という中国風の名前を与えたことについて、異論をはさむ人たちがいたことも事実である。例えば『豊前志』の渡辺重春である。彼は山陽によって山国郷が世に知られるようになったのはうれしいとしながらも「昔から定まった称のあるのを、漢学する徒の、自分の心の向き向きに、さかしらに称を改えて呼ぶのはいみじき癖事である」とし、「強いて唐土めかし唱うのはあるべきことではない。何事にあれ呼び方は正しくしたい」と述べている。広瀬淡窓は山陽と会見した印象について、才走りすぎているとも受け取れる言い方をしているようだ。それだけに、いささか風当たりも強かったのでもあろうか。
ともかく、幕末の志士たちに『日本外史』を愛読され、山陽の名が上がるにつれて、耶馬渓の名もまた「天下の名勝」として知られるようになった。

株式会社エフエム大分 代表取締役社長         梅木 秀徳

頼山陽が宿泊した
山陽の間
(正行寺)
末広雲華上人
(正行寺蔵)


耶馬渓図巻記の写(部分)(正行寺蔵)

 





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目次 特集/スポーツの振興 このごろスポーツしてますか?
おおいた文学紀行/耶馬溪と頼山陽
先人の軌跡 /玖珠郡長 三好 成 −竹田市出身−
大分県立芸術会館ギャラリー

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