大見出し:飯田高原 千町無田開拓指導者青木牛之助を助けた玖珠部長 三好 成(みよしせい) 竹田市出身
三好 成 肖像
青木 牛之助 肖像
白鳥神社
年の神神社の祠
開拓者たちが建立した朝日神社
朝日長者が飼っていた鶴の墓
 
命をかけた開拓の歴史には
一人のリーダーと、
彼を助けた一人の郡長との友情があった。 

 日本人ほど水を大切に、緑を大事にして生きてきた民族は世界にその類を見ない。しかし自然との付き合いは決して生やさしいものではない。恩恵をもたらす自然も、一度怒れば手の付けようのない暴れ方をする。
  この気難しい川との付き合いを生命をかけて守り、乗り越えた先人の涙と勇気の物語は枚挙にいとまがない。今回取り上げる千町無田(九重町)の百余年に及ぶ入植開拓の歴史は”壮絶“の一言に尽きる。
  荒れ地を沃野に変えると一口に言ってしまえば簡単であるが、この命をかけた開拓の歴史にはたぐいまれな一人のリーダーと彼を助けた一人の郡長(今でいえば知事職)との友情があった。
  筑後川は日田杉の林を源流に有明海に注ぐ。大河の流れが美しい舞を舞う久留米の大地に大洪水が発生。未曽有の豪雨が1市9郡を飲み込んだ。死傷者123名。明治22年(1889)。115年前のことである。
  その村おさの名は青木牛之助。郡長の名は三好成。流失家屋1263戸。破壊、浸水を加えれば3万6千戸を超える大惨事であった。膨大な被災農民をどうするか。
  牛之助はハワイ移民600名を神奈川県庁に働き掛け、制限年齢を超えた残り231名をどうするか。義きょう心の強い彼は意を決し国内に開拓地を求めることにした。
  情けは人のためならず。かつて久留米藩士(寺侍)のころ、豊後森藩の藩士を久留米藩主・有馬家の菩提寺梅林寺に泊めてやったことがある。その麻生幾次が窮状を聞き牛之助を訪ねてやって来た。彼が語った標高900メートルの広大な荒れ地「千町無田」に大きく心が動いた。
  飯田高原といえばいつも見る筑後川が玖珠川と名前を変えてその支流鳴子川の源流である。水をつくり出す九重連山源流の森への恩返し、これも何かの縁。水の豊富な高原に水田稲作ができぬはずがない。ここを入植の新天地と心に決め大分県との折衝に立ち上がる。
  彼は開拓地の払い下げ申請のため40回近く大分県庁に足を運んでいる。明治の重鎮山岡鉄舟の助力もあり、26年やっと許可が下りる。入植はしたもののすべてが思うにまかせず、高冷地に合った種籾が見つからず、その新種を東北秋田から導入したのが豊後岡藩士の長男として竹田に生まれ、玖珠郡長として赴任して来た三好成であった。
  牛之助の身命をなげうっての不屈の魂に心を動かされたのであろう。彼は明治4年廃藩置県で常備歩兵隊に。除隊後大分県師範学校入学、小学校教員免許取得。竹田小学校教員となる。以後官界に転じ大分県を振り出しに佐賀、岐阜、宮城の各県を転任。34年大分県に帰り37年玖珠郡長となる。
  4年余の在任中、特に産業振興に全力を尽くす。千町無田には殊のほか思い入れが深く、開拓者たちの高冷地水田稲作に心を砕く。まず牛之助と計り県に耕地整理を願い出る。
開拓者の労苦に報いるべくまず音無川をしゅんせつ。千町無田の田畑の周辺に縦横に排水溝を張り巡らす。この汚水除去によって千町無田は徐々に美田に変わっていった。良水田は50町に及ぶと大正6年の玖珠郡史にある。紛れもなく土地改良事業の第一号であった。
  関山という耐寒新種の導入で待望の水田稲作が可能になり、水害で水田を失った久留米からの入植者たちには大きな朗報であった。成は牛之助の理解もあり、豊後森の困窮者十数名も千町無田に入植させる。
  彼は44年に直入郡長として故郷に錦を飾る。この機に官界を退き念願の千町無田で第二の人生を送る決意をする。余生を開墾に打ち込み、あくまでも几帳面で礼儀正しく入植者たちの尊敬を一心に集めたといわれる。

源流の森がつくり出した貴重な水の一滴一滴は
百余年にわたる入植者たちの汗と涙の一滴

  千町無田を訪れた日(5月26日)田植えを終えたばかりの水田は見渡す限り早苗の緑に九重の山々が映え、一幅の絵画を見るような美しさであった。源流の森がつくり出した貴重な水の一滴一滴は百余年にわたる入植者たちの汗と涙の一滴に思えてならなかった。
  小高い雑木林の中にだんご祭りで知られる年の神神社があった。カヤで囲んだ素朴な祠(ほこら)。付近の白鳥神社ともども村人のあつい信仰を集めている。最大の功労者青木牛之助は朝日神社に神として祭られている。
  境内に青木牛之助氏開墾記念碑が建っている。彼は入植者に積極的に杉の植林を勧めた。その名残を白鳥神社の巨木に見る。ちなみにNTT初代社長真藤恒氏は次男の養子先の孫に当たる。
  久留米からの初代入植者は現存者も少なく、その三代、四代、五代目の子孫がしっかりと遺産を守っている|と現地の大隈公武、甲斐良一両氏は語っていた。
  朝日長者伝説といえば30年前、10周年記念県芸術祭開幕の4幕6景の創作バレエを思い出す。米の精と結婚し長者に成り上がった主人公が稲作の結晶であるもちを的に矢を射、自然の怒りをかって破滅するストーリー。そのルーツの地に立ち、意欲に燃えた、ロマンあふれる熱い舞台を思い出し感無量であった。

元大分合同新聞文化部長     永松 秀敏


朝日長者七不思議の一つ不断鶴の地

青木牛之助氏開墾記念碑(朝日神社境内)

千町無田開拓百周年記念碑(朝日神社境内)
◇参考文献◇
「大分県の産業先覚者」(大分県)
「大河を遡る・九重高原開拓史」(古賀 勝 西日本新聞社)
「水の文化史・四つの川の物語」(富山 和子 文芸春秋)
「川は生きている」(富山 和子 講談社)
「朝日長者」(小野 喜美夫)
「玖珠郡史」(玖珠町役場・九重町役場)
「ウイ・ラブ九州・それは九州に始まった・農穣を祈る・朝日長者伝説」(テレビ西日本)
「県芸術祭ふたあけ」(大分合同新聞 1974年10月2日付け 朝刊)
「魚眼レンズ」(大分合同新聞 1984年1月20日付け 夕刊)


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目次 特集/スポーツの振興 このごろスポーツしてますか?
おおいた文学紀行/耶馬溪と頼山陽
先人の軌跡 /玖珠郡長 三好 成 −竹田市出身−
大分県立芸術会館ギャラリー

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