メインタイトル:観光地の隠し技
副題:豊後高田・昭和の町の持久力
「犬と猫しか歩いていなかった」というフレーズがあちこちでよく使われている。平成10年以前の豊後高田市中心商店街のことだ。ところが当時、消費税導入のお知らせを持って豊後高田市の中心商店街を回ったある役人によると「実は犬や猫も歩いていなかった」。
 しーんとした真昼の商店街で一軒一軒の戸をあけ、中にいる店主に話をしたのだそうだ。あれから7年。豊後高田昭和の町は年間20万人の観光客を迎えるようになった。
写真:リーフレット制作会議
今夜は5回目のリーフレット制作会議。あくまでもコンセプトに沿って一店一宝、一店一品を決めていく。市の商工観光課からも二人が参加。右端が駄菓子屋の夢博物館館長 小宮裕宣さん。

写真:まちづくりの仕掛け人たち
まちづくりの仕掛け人たち。
左からアイデアと実行の権化“谷”さんこと安部谷次郎さん。
「方言丸出し弁論大会」実行委員長 土谷雄二さん。
熱い建築家 安藤剛さん。

写真:絵本美術館オープン前
黒崎義介絵本美術館、オープン前。館内に展示するとおりの位置に作品を並べてみる。左から商工会議所の金谷さん、市商工観光課の小原さん、安田係長。「こう入って、こう目線がきます」「あ、いいすねー」

写真:子どもの夢博物館
昭和初期に建てられた堂々たる農業倉庫を「昭和ロマン蔵」と名付けて再生させた。小宮裕宣さんの駄菓子屋の夢博物館が大人気。

写真:商業関係者
今夜もまた勉強する商業関係者たち。



写真:永松市長
永松博文市長のあいさつはいつも熱がこもっている。

●長い間くすぶっていた火種
  「昭和の町」がいちやく脚光をあびたために、豊後高田市のまちづくりがいわゆる“昭和ブーム”に乗ったのだと誤解されるかもしれない。が、それは大きな間違い。実はそういう短期戦ではなくて、実体はとても長い時間に裏打ちされている。しぶといのだ。 「昭和の町」を立ち上げていったメンバーの顔ぶれを見ると、それこそ昭和の55、6年にテンプランド(仏の里)建設計画を打ち上げ、あの抱腹絶倒の「方言丸だし弁論大会」を開催したメンバーが主力だった。そのメンバーは当時、「気が付くと、まちの中でオレたちだけが浮いていた」と語っている。”浮いてしまった若者たち“であった彼らが今や50代後半になり、豊後高田商工会議所の常議員や副会頭を務めるなど、地域社会の中心にすわっているのだ。感心するのは、若い時代に見た夢をみんなが失わずに抱き続けていたということ。 
●石橋を叩いて、叩いて
  商工会議所には、商店街再生という重いテーマがある。なんとかして、旧中心街を活気づかせたい。豊後高田商工会議所の中に結成された「商業まちづくり委員会」は熱々の論議を重ねていった。論議が熱い理由はメンバーの中心がかつての”浮いてしまった若者たち“で占められていたからである。彼らに加えて、
一世代下の商工会議所職員や市の観光課長たちが新しい力を見せた。
  とにかく、このまちの特徴は徹底した論議が繰り返し繰り返し行われることだ。商業まちづくり委員会にしても、商店主たちの「昭和の店再生会議」にしても「昭和の町運営協議会」にしても、たいてい仕事が終わった午後7時から開かれ、夜の10時になるのは当たり前、ひどいときは12時1時という長い時間をかける。

  そういう体質だから商店街再生のテーマを「昭和」にしたのも、決してブームに乗った思い付きではなかった。近世の「城下町」というテーマではどうか、あるいは大正時代の西洋建築を中心に「近代」をテーマにするのはどうか、などさまざまな可能性を資料と現地視察で2、3年かけて確かめていったあげくに方向を見失ってしまった。こんな後発のまちに観光の可能性なんかないんじゃないか。そういう閉塞した気分でいるとき、メンバーの一人が、ふと、「昭和」という時代に気付いたのだという。そうだ、昭和だ、昭和で行こう。それも父ちゃんや母ちゃんたちがまだ若くて、商売に燃えていた、この町が国東半島全体の中心地だった昭和30年代だ! 「昭和30年代」にテーマを絞り込んだ後はメンバーが一気に勢いを盛り返し、昭和に関する山のような資料を取り寄せ、昭和をテーマにした町や博物館など全国を視察して歩いたという。もちろん、市場調査もしている。石橋を叩いて叩いて、叩き割るくらいな念の入れようなのだ。
千嶋さん 清末さん
昭和の全盛期には貨車1台のお茶を買い入れていたという。伝説の千嶋茶舗の現当主千嶋敏夫さん。 都市銀行の敏腕金融マンからUターン、二代目餅屋となった清末浩一さん。
吉成さん 金谷さん
昭和30年代の白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機を店頭に置く吉成電気商会の吉成美智子さん。 この人が“確認の鬼”と呼ばれる豊後高田商工会議所の金谷俊樹さん。大きなプロジェクトを確認しながら引っ張っていく。

●1年かけた『まちなみ実態調査』
   「昭和をテーマにするんなら、まちの建物がどの時代に造られたのか調査しておいたほうがいいんじゃねぇ?」とある日の会議で市役所の課長が言ったのだそうだ。「国の事業でいいのがあるから申請してみようか」そのとき課長の頭に後光が射したように見えた。昭和の町建設での豊後高田市のバックアップは大きい。
  申請が通って、豊後高田市の旧中心商店街の店舗、住居、空き家301軒すべての調査をすることができた。301軒すべての建築年や歴史を調べ、現状の写真を撮り、設計士が図面に書き起こし、さらに昭和の店として再生するときにはどういうデザインが可能かを設計し、それをコンピューターグラフィックで描いて見せたのだ。「たとえ昭和の町建設が中断されることになっても」とメンバーの一人は言った。「百年後の住民はこの町にどういう商店街があったか正確に知ることができるでしょう」
  雨ニモ負ケズ、台風や炎暑にもめげず301軒を回ったのは、調査員と市の職員や商工会議所の職員などだった。これがきっかけで旧家の蔵の所蔵品整理に毎日曜日通ったメンバーもいる。埃で鼻の穴が真っ黒になりながら、シーボルトから贈られたワインなどを発見して大感動したという。
  歯車がコトリと動きはじめるといろんなところに流れができる。
  昭和の町建設中のメンバーには止めようもない勢いがあった。それでとうとう口説き落とされたのが、駄菓子屋のおもちゃの所蔵では日本一と言われる小宮裕宣さんだった。福岡市の店をたたんで、豊後高田市に本拠を移すのは勇気がいることだったと思う。しかし、平成14年『駄菓子屋の夢博物館』は未公開のものを含む3万点の所蔵品を展示して楽しくオープンした。小宮さんの決心には何十回かの腹をわった酒飲み会がものをいったのだろう。メンバーと小宮さんは共通して夢を持ち、酒が強い。
 

●昭和の町、建設中
   「商店街再生」をテーマにまちづくりをして、一応の成功を見ているのは、日本広しといえど大分県の豊後高田市ただ一カ所だといわれる。それほど難しいテーマなのだ。難しい事業だからこそモデルケースとして、豊後高田市のみならず、大分県、国のバックアップがある。
  昭和の町は年度ごとに事業を拡大していっている。7軒の店で始まった昭和の店もいまや32軒に増えた。人脈も増やしつつある。昭和の町のイメージキャラクターとなっている男の子と女の子が押しっくらをしている絵は、昭和を代表する童画家黒崎義介画伯の絵なのだが、黒崎画伯の息子さんである黒崎真宏さんと親交を結ぶことができた。黒崎真宏さんはテレビ朝日『徹子の部屋』などのプロデューサーだった人で、豊富な人脈の持ち主。「豊後高田の人たちは気分がいい」と、気前よく自宅にあった黒崎画伯の作品を貸してくれた。これによって今年2月1日には『昭和の町黒崎義介絵本美術館』がオープンした。
  まだまだ、見なくてはならない夢のつづきがある。商店街を観光地にしたのなら、観光地としてのスケール、つまり面としての広がりがいる。国東半島には上代の六郷満山があり、田染荘には中世の宇佐神宮の荘園があり、杵築には近世の城下町が残されており、豊後高田・昭和の町には近代がある。この四つの点をむすんで将来はボンネットバスを走らせたい、という。そのために費やされるであろう会議の時間の長さはとうてい予測できそうもない。
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おからコロッケが人気の肉の金岡。 なつかしのバナナ菓子を売る近藤松月堂。 戦前からハイカラなミルクセーキをつくっていた森川豊国堂。
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現在のロマン蔵は昭和の初め1万俵の米を収納する農業用倉庫だった。持ち主であった“野村財閥”の屋敷あと。 店内がそのまま昭和の映画の中みたいな安東薬局と安東又郎先生。 昭和の店は、そのまま「まちかど博物館」になっている。
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行商用のリヤカーや、自転車、天秤、看板など商売の“お宝”が各店に展示されている 昭和の犬を名乗っている松田履物店の看板娘“ゆき”。
新町2丁目
昭和の町ポスター
<お問い合わせ先> 昭和の町:豊後高田商工会議所 TEL 0978-22-2412
                昭和の町 黒崎義介絵本美術館 TEL 0978-24-2811


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目次 特集/観光地の隠し技
おおいた文学紀行/「濁流に泳ぐ」麻生 久
先人の軌跡 /検番三社中の群像たち−別府市−
大分県立芸術会館ギャラリー

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