メインタイトル:おおいた文学紀行 九重町・湯布院町・別府市 麻生久 麻生久、肖像 サブタイトル:濁流に泳ぐ
清新にして脈々たる「生動」感
《写真提供 麻生良久氏》
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飯田村(現九重町右田)の
生家の庭で
大分中学時代

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東京帝国大学時代禄会弁論部の大会
前列中央は犬養毅 後列左端が麻生

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本郷林町の自宅にて 昭和14年頃 左端は長男良方氏

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昭和12年の総選挙時のもの 左から麻生、浅沼稲次郎、平野学

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麻生久の著書群
「濁流に泳ぐ」は、
長谷目源太氏蔵
他は大分県立図書館蔵

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九重町右田の生家付近

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別府湾の眺め

書かざるを得ない(強烈な)衝動が、
彼をして筆を執らしめたのに違いない
  自伝小説とされる『濁流に泳ぐ』(海口書店、1923)は、40年ほど前、貪るようにして読んだ記憶があるが、その著者の麻生久(1891〜1940)については、戦後世代に属するわれわれとしては、日本の社会運動史の中で華々しく活動し、そして1940(昭和15)年、挙国一致、東亜新秩序を掲げる大政翼賛、近衛新体制の枢軸へと参画していった郷土出身の政治家、といったイメージの方が、より強いのであった。
  しかし、麻生久50年の生涯にとって、この 『濁流に泳ぐ』のほか、『生きんとする群』(1923)、『黎明』(1924)、そして『人生を横切る者』(1925)など、一連の文学作品を通読すれば、麻生の、この青空いっぱいを押し広げようとでもするかのようなロマンチシズムと、鋼鉄をも貫き通さずんば已まぬとするヒューマニズムの両精神は、政治と革命に理想を求めた社会主義者というよりは、トルストイ、ツルゲーネフに心酔し、独歩、藤村、透谷らの影響を強く受けた作家、文学者たる麻生の方にこそ、その原型を思い描くことの至当を指摘したいと思うのである。
 麻生久は、1891(明治24)年5月24日、大分県玖珠郡東飯田村(現九重町)大字右田2558番地に、父良策、母方の次男として生まれる。良策の祖父伊織は、日田の碩学広瀬淡窓の妹那智を妻とし、母親は淡窓の弟弥六の曾孫、叔父は観八(1865〜1928)と、まさに旧家、名門の出自である。しかし、久の幼少年時代、家業は豊かとは言えず、夏は天井に蛇が這い、漏った雨は床を濡らし、山の下刈りから、スギ、ヒノキの植樹と、家族のみんなは働き詰めであったという。そんな中、久は、母の無限の慈愛を体感しつつ成長していったのである。
  生前、麻生は、『濁流に泳ぐ』を小説作品とはいわず、記録、自伝と銘打っているのだが、評論家の新居格(1888〜1951)は、「(麻生君は)玄人の小説家が小説を書く意味で書いたのではあるまい。恐らくは書きたいために、書かざるを得ない(強烈な)衝動が、彼をして筆を執らしめたのに違いない」とし、彼のペンには、清新にして脈々たる「生動」があり、読むものの心を打たずには措かないと、高く評価、激賞している。わたしは、 この稿を書くに当たり『濁流に泳ぐ』を再読したが、あの、余りにも有名な人間麻生の「自序」に触れれば、新居たらずとも、何人も、その過激ともいえる高温高圧にして、燃えたぎり、湧き上がり、ほとばしり出る熱情には、驚倒に近い感動を覚えるに違いない。

『貴様は何処から生まれて来たのだ』と、何人かが私に問ふなら、私は微笑しながら率直に答へよう
  『うん、俺は、淫賣窟と女郎屋と貧民窟と、それから、頽發と病毒と醜悪と絶望のどん底から生まれてきたんだ』と。

(原文のまま)

 いま、本著の全三編、31万字にも及ぶ自伝小説を読み終えるのには、かなりの努力が必要であろう。そこで、大方の県民読者には、その第一編13章
(大分中学卒業まで)、約100ページほどの必読をおすすめしよう。この部分には、麻生の出生から家族の紹介、大分中学での5年間、そして高等学校受験のための上京までがビビット(生き生き)に描かれていて格別に印象深いからである。
  麻生は、生地である玖珠の山や川、その自然を「何たる心地よさだろう。健康と、生気が、五体のうちに甦って来る」と称えているが、中でも、14歳の春、中学受験のため故郷を後に、人生初めて大分市まで十幾里を歩き通した旅は、素晴らしい叙景として描出、再現されている。母の「道が遠いから気を付けなさい。(大分では)病気をせぬように」の声に涙をもってうなずき、暗い闇の中を歩き始め、夜明けが過ぎたころ、澄み切った空に偉大な沈黙を見せる由布岳を仰げば、またいやが上にも母恋しく、寂寥を感じつつ、遅い昼時には猪の瀬戸を経て、やさしくなだらかな城島高原へ。そして痛む足を引きずりながら鳥居峠に立てば、生まれて初めて見る海別府湾を眼下に、久は、急に自分の未来が開けたような安堵を感じ、夕刻近く別府の町へ。続いて、これまた初めての電車に乗って、ようやく大分の叔父の家へ到着する。麻生にとって、この日一日の旅の叙述からは、およそ「濁流に……」などというイメージは湧いてこない。優れたふるさと賛美の一文であって、まことに心地よい読後感である。大分中学では、洋画の權藤種男(1891〜1954)、日本画の福田平八郎(1892〜1974)らと同級、美術教師に松本古村らがいたが、その3学年2学期のころ、生徒の処分に反対するストライキに参加、無期停学となり、時の校長から「非を認めれば復学を認める」と説諭されるが、久は拒絶、「自分は悪いことをしたのではないから謝らぬ」と、頑強に抵抗、大中の歴史に一ページを記すこととなる。そして、1909(明治42)年4月、19歳の青年久は、足に太い鼻緒の日和下駄、肩に大きな風呂敷包みを前後ろにかつぎ、これまた13里の山道、深耶馬を歩き通して中津へ。日豊線中津停車場を後に、門司、下関を経て東京を目指す。
  さて、後年麻生は、社会運動を通じて杵築出身の佐野学(1892〜1953)らと親しく交流し、佐野の転向後、麻生も”右“傾向の道をたどるのであるが、いまにして思えば、あるいは、その行動は右派的であったとしても、思想的には”左“派そのものであったし、佐野のアジア民族解放論などは、麻生が描く国家社会主義革命論と、その論法、理念において符合するところが多く、さらにはまた、林房雄(1903〜1975)の『大東亜戦争肯定論』にも通底する部分などもあり、あるいは同県人なる“血縁”の所為なのかと、これは私の推論なのである。

長谷目 源太
      (詩人・九州文学同人)

夜明けが過ぎたころ、
澄み切った空に
偉大な沈黙を見せる
由布岳を仰げば、
またいやが上にも母恋しく、
寂寥を感じつつ
道の駅「ゆふいん」から仰いだ由布岳


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目次 特集/観光地の隠し技
おおいた文学紀行/「濁流に泳ぐ」麻生 久
先人の軌跡 /検番三社中の群像たち−別府市−
大分県立芸術会館ギャラリー

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