英之助は生来器用であり、しばしば医療器具の修理を簡単にやってのけた。近藤は、英之助の器用さを生かすには我が国に前例のない西洋流の歯科医学が最適だと考え、これを学ぶよう説き勧めた。
偶然にも、慶應義塾時代の親友坪井仙次郎が英語修行のため米国人歯科医セント・ジョージ・エリオット宅に出入りしていた。彼から西洋流の歯科医術について詳しく知らされた英之助は、これこそ天職としてふさわしい職業と確信する。
ところが篤次郎は「歯科は武士の職業ではない」と猛反対。これを近藤や坪井の協力で、どうにか説得して明治5年(1873)の秋ごろにエリオットに入門することができた。
このとき英之助は23歳。新たに学問を修めるには、当時としては少しばかり遅い感もあった。しかし、何事にも熱心に取り組む英之助はエリオットの信任も厚く、その技術・学問を吸収し、上達していった。のちにエリオットが上海へ移ることになったときも、これに同行するまでに信頼されていた。エリオットが英国へ渡る際に独立開業することを許されたため帰国、東京で開業する準備を進めた。
このころ明治政府は医療の近代化を進めていた。明治7年(1875)に医制を発布、以後医師となる者には開業医免許の試験を行うことになり、英之助もこの試験を受けることとなった。当時は「歯科」とは呼ばずに「口中科」「口科」、あるいは入れ歯だけを扱った「入歯師」と呼ばれており、内科や外科などよりも一段低いものとして区別されていた。明治政府の医制も同じような考え方であったため英之助は憤慨する。自分は西洋の最先端の技術・学問をマスターしているとの自負もあったことだろう。試験を託されていた東京医学校(後の東京大学医学部)に歯科の試験を行うよう頑固に働きかけ、結局、英之助一人のために「歯科」の試験が行われることになった。
ところが、「歯科」の試験をしようにも、英之助以上に「歯科」をマスターした者がいなかった。しかも受験者は英之助ただ一人。このため、試験問題を英之助自身がつくり、自分で受験するという”自作自演“だったと伝えられている。こうして英之助は我が国初の歯科医となった。 |