vientのトップページへ大分県庁のホームページ
特集
対談のページ大分文学紀行先人の軌跡大分県立芸術会館ギャラリー

特集1ページ 特集2ページ 特集3ページ 特集4ページ 特集5ページ

日本歯科医業の開祖小幡英之介-タイトル写真

 
 豊かな人生を送る上で歯の健康はその基本となる。現在、歯科医師は全国で9万人を数え、大分県でも700人を超える歯科医師が私たちの健康を守ってくれている。しかし、その第一号が大分県出身であることは、案外知られていないのではないだろうか。

 日本歯科医業の開祖とも呼ぶべきその人物は、中津市出身の小幡英之助。英之助は嘉永3年(1850)8月10日に中津城に近い殿町に生まれた。父孫兵衛は中津藩の甲州流軍学の師範で、英之助も幼少のころから父に銃砲術を学び、7歳から藩校進修館で学んでいる。

 15歳の時に長州征伐に加わるも無事帰還、その後、中津でしばらく医学の手ほどきを受けていたが、明治2年(1869)、福沢諭吉の甥で実業家として知られる中上川彦次郎らとともに上京し、慶應義塾に入塾した。保証人は、当時塾長を任されていた伯父小幡篤次郎であった。英之助の向学心は、この篤次郎や諭吉の影響が大きかったものと思われる。慶應義塾時代の英之助は勤勉で潔癖。諭吉は塾生の行儀に厳しく、日曜の朝は自ら塾生の部屋を巡視していたが、英之助がいる部屋は「見ないでよろしい」と言うのが通例であったという。

 篤次郎は英之助を医師にしたいと考え、明治4年(1871)に中津出身の医師佐野諒元に入門させ、翌年にはさらに外科を学ぶために横浜の近藤良薫に入門することを勧めた。

中津市歴史民俗資料館(英之助生家跡) の全景写真
中津市歴史民俗資料館(英之助生家跡)

資料館内部の写真
資料館内部

開院当時の写真
開院当時の写真

英之助の伯父篤次郎の像の写真
英之助の伯父篤次郎の像

【参考文献】
◇「小幡英之助先生」 今田見信/編 小幡先生伝記刊行会
◇「大分の医療史」 高浦照明/編 大分合同新聞社
◇「医は不仁の術 務めて仁をなさんと欲す」 川嶌眞人著 西日本臨床医学研究所 
◇「ふるさと九州先駆者」 (財)九州電気保安協会
◇「小幡英之助先生顕彰 第20回歯科祭記念誌  中津歯科医師会100年の歩み」 (社)中津歯科医師会


書物の写真 英之助は生来器用であり、しばしば医療器具の修理を簡単にやってのけた。近藤は、英之助の器用さを生かすには我が国に前例のない西洋流の歯科医学が最適だと考え、これを学ぶよう説き勧めた。

偶然にも、慶應義塾時代の親友坪井仙次郎が英語修行のため米国人歯科医セント・ジョージ・エリオット宅に出入りしていた。彼から西洋流の歯科医術について詳しく知らされた英之助は、これこそ天職としてふさわしい職業と確信する。

 ところが篤次郎は「歯科は武士の職業ではない」と猛反対。これを近藤や坪井の協力で、どうにか説得して明治5年(1873)の秋ごろにエリオットに入門することができた。

 このとき英之助は23歳。新たに学問を修めるには、当時としては少しばかり遅い感もあった。しかし、何事にも熱心に取り組む英之助はエリオットの信任も厚く、その技術・学問を吸収し、上達していった。のちにエリオットが上海へ移ることになったときも、これに同行するまでに信頼されていた。エリオットが英国へ渡る際に独立開業することを許されたため帰国、東京で開業する準備を進めた。

 このころ明治政府は医療の近代化を進めていた。明治7年(1875)に医制を発布、以後医師となる者には開業医免許の試験を行うことになり、英之助もこの試験を受けることとなった。当時は「歯科」とは呼ばずに「口中科」「口科」、あるいは入れ歯だけを扱った「入歯師」と呼ばれており、内科や外科などよりも一段低いものとして区別されていた。明治政府の医制も同じような考え方であったため英之助は憤慨する。自分は西洋の最先端の技術・学問をマスターしているとの自負もあったことだろう。試験を託されていた東京医学校(後の東京大学医学部)に歯科の試験を行うよう頑固に働きかけ、結局、英之助一人のために「歯科」の試験が行われることになった。

ところが、「歯科」の試験をしようにも、英之助以上に「歯科」をマスターした者がいなかった。しかも受験者は英之助ただ一人。このため、試験問題を英之助自身がつくり、自分で受験するという”自作自演“だったと伝えられている。こうして英之助は我が国初の歯科医となった。

院内の写真 加来歯科の展示室の写真
加来歯科の展示室
昔の医療器具の写真
昔の医療器具
(中津市加来歯科医院で展示されているもの)
昔の医療器具の写真

 明治8年(1876)、英之助は東京都京橋区采女町の医者の家の2階で開業した。これが開業医免許を持った日本人による歯科医院第1号であった。英之助が習得した新しい歯科技術は評判を呼び、木戸孝允や陸奥宗光など明治の元勲も通院している。英之助の血縁に当たる小川桜三郎氏は、少年のころに切手を捜していて当時の総理大臣から英之助にあてられた礼状を見つけたという。

 英之助は技術を磨くだけでなく、我が国で初めての歯ブラシ発売や、患者ごとに診療時間を決める予約制の採用、診療費を一定の価格にする(当時の診療費は患者の地位や経済状況によって左右されていた)など、数々の新しい試みを行った。医療機器も考案し、彼が作らせて実際に使用した日本最古の歯科診療椅子は、現在も東京歯科大学に保存されている。

英之助はまた、忙しい中で数多くの門下生を育てている。自分の知識や技術を分かつことを惜しまなかったため、全国から入門者が集まった。これは徒弟制度の厳しい時代としては極めて異例なことである。弟子の中では大分県出身者が半数以上を占め、さらにそのうちのほとんどが中津出身者であった。

 彼は皇族の侍医となることも断り、数多く持ち込まれる役職就任の要請も受け付けず、ひたすら、治療と門下生の育成に専念した。この英之助の思想を受け継いだ門弟たちによって日本の歯科が大きく前進したことは間違いない。

 明治42年(1909)4月26日、英之助は突然の脳出血で倒れ60歳で生涯を閉じた。現在、中津城にほど近い中津市公園に小幡英之助の銅像が建っている。これは地元歯科医師会が中心になって建立したもの。中津歯科医師会ではこの像の前で毎年5月の第2日曜日に歯科祭を行い、英之助の遺徳を顕彰している。英之助が切り開いた近代歯科の道は、いまも脈々と受け継がれているのである。

胸像完成記念写真
胸像完成記念写真 昭和12年5月18日
ふるさと九州先駆者-資料写真
ふるさと九州先駆者
青山墓地の碑の写真
青山墓地の碑
大分の医療史-資料写真
大分の医療史

 



vientのトップページへ大分県庁のホームページ
特集
対談のページ大分文学紀行先人の軌跡大分県立芸術会館ギャラリー
特集1ページ 特集2ページ 特集3ページ 特集4ページ 特集5ページ

←戻る | Vientトップページ | 次のページ→