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おおいた文学紀行 種田山頭火-タイトル写真

 
 しずめたはずの過去の記憶がふと生々しく舞い上がってくる。悔恨、不安、焦燥、寂寥。生存への恐怖、生存の倦怠。俳人種田山頭火の日記には、どうしようもない自分の心の捕らわれが繰り返し記録されている。
  本名種田正一、生家は山口県防府市で”大種田“と呼ばれる大地主であったという。父の遊蕩に苦しんだ母の自死。残された5人の子どもたちを祖母が養育するなかで幼い末弟が死亡。嫁した長姉も夭逝。次弟も養家から出されたのち山中で縊死。
  早稲田大学文学部を中退するときも、また一ツ橋図書館を辞めるときも種田正一への医師の診断書は神経衰弱となっている。日常生活を多くの人のように健康かつ平凡に過ごすことができない。状態が悪くなれば昼はうつうつとして想念の底深い闇に閉じ込められ、頭痛におそわれ、夜はまた不眠や悪夢にさいなまれる。そういう苦しみの世界から逃れようとして、あるいは自棄になって、酒やカルモチン(睡眠薬)を飲む。
  俳人としては大正2年、32歳のとき、荻原井泉水が主宰する口語律俳句の雑誌『層雲』に山頭火と号して投稿をはじめ、井泉水に非凡な才能を認められて、大正5年には選者となっている。
  山頭火がめざしたのは、「作る句」ではなく、「生む句」だった。「私は上手に作られた句よりも下手に生まれた句を望みます、たとへ句は拙くても自己の生命さへ籠って居れば、それだけで存在するに足ると信じて居ります、而しさういふ句はなかゝ出来ません。(大正4年『層雲』4月号 荻原井泉水あての文)


短冊写真
短冊
「分け入っても分け入っても青い山」(大正15年作)

句の写真
瓦屋呉服店に残る
紙切れに書かれた句

長谷寺の写真
長谷寺

結婚のころの写真結婚のころ。中央が山頭火、右は妻サキノ 山頭火像の写真清水寺境内の山頭火像
瓦屋呉服店の写真
瓦屋呉服店
清水寺の写真
清水寺
 
 金があるときもないときも、山頭火は実によく酒を飲んでいる。どろどろになる酒ばかりではなく、心許した句友どうしで酌む酒は楽しく刺激的であったにちがいない。山頭火の読書熱、文学全般への豊かな理解、新しい俳句を創造していこうとする鋭い意志。地方に住む年若い句友たちが有名な山頭火に会って感動した様子がその人たちの文に残されている。ところが、山頭火は決してかっこよくない。あちこちで、酒代や泊まり賃が払えなくなって、句友たちに金の無心の手紙を出している。それも額が大きい。しかし句友たちは、山頭火という特殊な生き方をする俳人に、さまざまな援助をしつづける。家に泊めてごちそうする、当座の小遣いを渡す、借金を払ってあげる、読みたいという本を送る、何よりも楽しみにしている手紙を出す。山頭火は禅僧として旅をしたわけだが、そもそも山頭火が禅僧になったのも、泥酔して電車を止める事件を起こしたとき、俳句の知人が禅寺の住職のもとに身柄を預けてくれたのがきっかけだった。


 
山頭火写真 禅僧としての山頭火が行なったのは”行乞“の旅であった。行乞というのは、乞食の行をすることで、門口に立って鐘を鳴らし経を読み、米かお金の喜捨を受ける。これにくらべると、
”托鉢“というのは、雲水が何人も縦列に並んで「ほーうっ(法雨)」と言いながら歩くが、門口には立たない。沿道の人は列を追いかけて米や金を喜捨する。袈裟袋には『○○僧堂』と染め抜いてある。山頭火の行乞にはそういうブランドマークがついていない。だから、ときには乞食同然の扱いを受け、宇佐町四日市では泥棒と間違えられて警察に調べられ、木賃宿では臭い布団やシラミに苦しめられている。
  昭和4年11月、山頭火は、英彦山にはじまる九州西国霊場巡りに出発し、大分県の観音霊場を巡り終えて熊本へもどる旅をした。禅僧となって4年め、47歳のときである。このときの観音霊場巡りについては『山頭火研究』(植山正胤著・渓水社)に詳しい。
  山頭火が歩いたコースのあらましをたどると、昭和4年11月13日、日田の宿を出発して英彦山までの難路の山道を行く。英彦山で2泊したのち山国川源流の谷を下って守実に泊まる。《分け入れば水音》《すべってころんで山がひっそり》
  11月16日には中津へ向かって歩き、青の洞門の近くに1泊。中津市では『層雲』同人の松垣昧々や木村宇平の家に泊まり、飲みかつ楽しく語る。《しぐるる夜の水がおいてある(昧々居)》
  「今朝、中津を立って途中九州西国第二番長谷密寺、第三番清水寺参拝、しみじみ閑寂の気分にひたることができました」と敬愛する師の井泉水に書いている。清水寺を出て11月20日は宇佐市四日市泊まり。11月23日、宇佐神宮参拝。「おのづから頭の下がるを覚えました。つづいて、大楽寺拝登、銀杏がうつくしく立ってゐたのが眼に残ってゐます」と、これは中津の松垣昧々へのハガキ。

句碑写真
国見町「渓泉」の句碑
句碑公園写真
句碑公園
大楽寺写真
大楽寺
天念寺写真
天念寺
椿堂写真
椿堂
 
 宇佐神宮、大楽寺からは豊後高田へ向かっている。昭和4年当時、豊後高田は国東半島全体をマーケットとする賑やかな商業都市だった。
  創業1787年の瓦屋呉服店6代目当主高井博爾さんによると、父である5代目の荘司さんは足が悪く、いつも店の帳場にすわっていた。その店先には、一日に十人も二十人も物貰いの乞食や行乞僧がきていたという。その日も店先に立った行乞僧に何げなく一銭銅貨を投げたところ、僧はその銭と細長い紙切れを置いて去った。見ると、コヨリにするような和紙に「投げられし此の一銭 春寒し コヂキ」とあった。風格のある筆遣いだった。荘司さんははっと胸をつかれ、自分の非礼、慢心を恥じて、その紙を大切に保管した。ところが、縁は異なもの。のちに熊本から高田素次という俳人が訪ねてきた。高田素次は九州俳壇の四天王といわれた高井左川の実家を訪ねたのだった。つまり、左川は瓦屋呉服店の生まれで荘司さんの叔父さんにあたる人。このとき、荘司さんが例の行乞僧の紙切れを高田素次に見せたところ、山頭火のものではないかということで、筆跡鑑定の結果も山頭火のものだと出た。荘司さんはそれまで山頭火を知らなかったけれど、そういう優れた俳人のものならいよいよ大切にします、と言ったのだそうだ。いまも瓦屋呉服店にはこの紙切れが額に入って飾られている。
  昭和4年の観音霊場巡りは豊後高田から天念寺、両子山へ。「昨夜は山家に泊まりまして、ひとりでしんみりしました。今日はしぐれる岩山を四つ越えました。両子寺、天念寺、椿堂、どれも岩山の景勝を占めてをります、このあたりは小耶馬渓とでもいひたい山間であります、毎日の時雨で行乞が出来ないで時雨の句ばかり出来ます 二十六日 豊後赤根にて」。井泉水にこう書き送ったのち、山頭火は杵築、別府、大分へと観音霊場巡りの旅を続けて行く。


(企画編集ハヌマン代表)



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