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おおいた文学紀行 もりおうがい「長宗我部信親」

頃は天正14年
しはす12日の朝まだき、
筑紫のはても冬蘭けて、
霊山おろし吹きすさむ
戸次の川の岸ちかく、(以下略)
  もりおうがいの長編叙事詩「長宗我部信親」(全367行)の冒頭だ。天正14(1586)年12月12日、豊後へ侵攻してきた島津軍と長宗我部ら四国勢が戸次川原で合戦、四国勢が大敗し、若武者の長宗我部信親が壮絶な戦死を遂げた悲劇の史実を、おうがいが薩摩琵琶歌に作ったもの。この合戦はどうして起こったかをまず見てみよう。
  事の発端は、これより8年前の天正6年、大友宗麟がキリスト教の洗礼を受けたこと。宗麟(ドン・フランシスコ)は、日向(宮崎県の延岡市)に、理想的なキリシタン都市を築こうと、大軍を率いて出兵。島津軍と高城・小丸川で決戦、大友軍は大敗した。キリシタン都市に賛同できない有力家臣たち(神仏信者)が、やけくそになって戦ったための敗北だった。
  この大敗で、宗麟と大友氏の威光は地に落ちた。逆に島津氏は勢いをつけ、豊後を包囲して侵攻の機会を伺った。危機感にかられた宗麟は、天正14年の春、大坂城に豊臣秀吉を訪ね、救援を求めた。
  中国・四国を平定して、九州を狙っていた秀吉には渡りに船で、腹心の黒田孝高(戦後、軍功で中津城主)を先発させ、四国からも援軍を送った。四国は土佐(高知県)の長宗我部元親が天正11年全土を平定したが、同13年、秀吉の四国征伐に降伏。四国征伐に功績があった仙石秀久が讃岐(香川県)の高松城主になっていた。
  この関係から、四国勢は仙石秀久が軍監として指揮を執り、14歳年上で実力者の長宗我部元親はその配下となった。元親の長男が信親で当時22歳。ほかに十河在保も従軍した。
  秀吉は出兵に当たって、合戦せずに、ろう城して援軍を待て、と指示した。
  四国勢が府内の港(沖の浜)に着いた10月、豊前で反大友勢力が挙兵した。当時、府内の大友館で指揮をとったのは、宗麟の長男義統。全く戦術の分からない人で、四国勢の到着に気を大きくしたのか、仙石の四国勢ともども豊前へ出兵した。
  島津軍はこの機会を逃さず、どっと豊後へ乱入。大友の部将には島津軍に内応する者が多く、島津軍とまともに戦ったのは臼杵・丹生島城の宗麟、岡城の志賀親次、そして戸次の鶴賀城の利光宗魚らだった(いずれもキリシタン)。
  なかでも鶴賀城の利光宗魚は手勢が少なく、農民老若男女が城にこもって石を投げたりのゲリラの必死の抵抗戦を展開した。この間、豊前へ出兵した義統と四国勢は急きょ、府内へ引き返し、鶴賀城の救援へ。鶴賀城のふもとの戸次川原で島津軍と対峙した。
  四国勢の軍監・仙石秀久は、豊前出兵という失態を犯したため、あせっていた。功を急ぐあまり、長宗我部親子の反対を押し切って、戸次川を渡り、島津の大軍(島津16000人対6000人とも)に包囲されて散々に破られ、仙石は逃げた。だが、長宗我部信親は踏みとどまって島津軍と戦った。
武者の行列の写真(大野川合戦まつりより)陣にある焚き火の写真(大野川合戦まつりより)

中にも大将信親は
唐綾織の甲を着、
蛇皮の冑を戴きて
馬を縦横に馳せめぐらし、
四尺三寸の長刀を
閃く稲妻石撃つ火と
見まがふ迄に打ち揮ひ、
敵八人を切り伏せつ。
乗りたる愛馬内記黒も
数箇処のいたでに倒れければ、
徒立となり、長刀棄て 
太刀抜き取って戦ひぬ。

そして信親の最期は、島津軍の軍奉行との一騎打ち。
信親につこと打ち笑みて、
殊勝の敵よ土佐武士の
最期を見よとわたりあひ、
思ふ儘に太刀打して、
二十二歳を一期とし、
地にもたまらぬ暖国の
雪より先に消えにけり。
大野川合戦祭りの様子の写真
 もりおうがいがこの長編叙事詩を書いたのは明治36年で、9月に単行本として出版された。 外は明治32年6月から35年3月まで、小倉の12師団に軍医部長として勤務し、『小倉日記』を書いた。それによると、33年6月に大分県を訪れているが、この時点では長宗我部親子の悲劇は知らなかったので、戸次川の合戦場は訪れなかった。だから3年後にこの詩を書いた時は、古戦場のことは地図で推測するしかなく、冒頭の詩のように「霊山おろし」と書いた。おうがいは「霊山といふ地名もめでたければ、霊山卸と書きぬ」(長宗我部信親自註)としたが、現地からは霊山は見ることができない。
  その現地、鶴賀城のふもと山崎の丘(大分市利光)には信親の墓や顕彰碑が建っており、昭和32年から毎年12月12日には地元民と長宗我部ゆかりの子孫らが合同で慰霊祭を行ってきた。
  これとは別に、今年初めて地元大南地区の地域おこしを兼ねて「第一回大野川合戦まつり」が行われた。騎馬行列、合戦絵巻や朝市、いかだ遊びなど多彩な行事で、今後大分市の新しいイベントになりそうだ。
馬に乗っている武者の写真
もりおうがいの旧居の写真 小倉市京町のおうがいの旧居
(文京区立おうがい記念本郷図書館所蔵)

戸次の街並の写真
戸次の街並
別大電車の写真 おうがいが大分を訪れた時に乗った、明治の頃の別大電車 明治38年の頃のもりおうがいの写真 明治38年の頃のおうがい
奉天にて(文京区立おうがい記念本郷図書館所蔵)
鎧の写真鎧のレプリカ(帆足家酒造蔵展示)
長宗我部家紋の刀の柄長宗我部家紋の兜飾り
叙事詩碑の写真 叙事詩碑 信親の墓の写真 信親の墓
戸次川古戦場の地図と鶴賀城跡から望む大野川の写真
鶴賀城跡から望む大野川

▽参考文献

おうがい全集』 第十九巻』(岩波書店)
小野茂樹著『大分県と文学』(藤井書房)
松本義一著『大分文学紀行』(アドバンス大分)

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