昼は鉄道院上野保線事務所の給仕、夜は岩倉鉄道学校工業化学科に通う。卒業後農商務省臨時窒素研究所に就職。空中窒素固定などという難しい実験化学に携わる。もともと考古学に興味のあった直良は、自身の時間は得意の分野を生かし縄文の遺跡の研究に没頭する。過労がもとで結核を患い退職。帰郷の途中姫路下車。臼杵時代マドンナ的存在であった女性教師と感激の再会。後に妻として彼の片腕となる直良音であった。以後、妻の姓を名乗る。療養生活の中で地道な研究の積み重ねの上に画期的発見となる。 足を運んでいた明石の海岸には旧石器時代に当たる地層があることを突き止め、ついに昭和6年(1931)4月18日、がけから崩れ落ちた土の中から人骨の化石を発見する。明石の西八木礫層から出土した人類左腰骨がそれである。しかし彼は、アマチュア研究家だったが故に人骨の信ぴょう性も含め、学界論争の渦の中に巻き込まれてしまう。この内幕は松本清張の「石の骨」に詳しい。 ひどい時は詐欺師呼ばわりされ、発掘現場からつまみ出されたこともあった。逆に学問への情熱はつのるばかり。再度上京した彼は早稲田大学獣類化石研究所に助手として勤務。系統立った研究成果が認められ理工学部講師として人類学の講義を担当するまでになる。 捨てる神あれば拾う神あり。戦後のある日。思いがけない朗報が飛び込む。当時、学界最高権威の1人東京大学人類学教室長谷部言人教授が紛れもなく化石人骨だとお墨付きを与え、ニッポンナントロポス・アカシエンシス(明石原人)と命名したのだ。 大御所による問題提起は敗戦による暗さを吹き飛ばす明るい話題として考古学界内外に大きな反響を呼ぶ。ちょうどこのころ競泳の古橋廣之進の世界新記録、湯川秀樹のノーベル賞受賞の知らせが相次ぎ日本中を沸かせた。
直良の研究は考古学という狭い範囲にとどまらず美しい日本の自然をあるがままに、幅広く観察し地質、動植物から人間の営みまで克明に記録に残した。言わば博物学とでも言える見事なものであった。それもほとんど独学に近い形で成し遂げたところに粘り強さを信条とする臼杵人の心意気を垣間見る。研究の幅広さは「日本古代農業発達史」で文学博士に。「日本産狼の研究」というユニークなものもある。 化石と言えば大分県も無縁ではない。宇佐市安心院町津房川のがけから象の化石が出土したのはつい10年前。 県南佐伯市本匠の聖嶽洞穴の神の手騒動も記憶に新しいところ。日本人はどこから来てどこに住みついたのか。南の海を島伝いにやってきた説もあれば、北や東の海を越えて、太古の昔は大陸と陸続きであった説もある。原日本人への思いはいやが応でもわれわれに古代への限りないロマンを駆り立てる。 その原点をつくったのが直良信夫である。その直良が見付けた明石原人骨は、東京大空襲で消失してしまった。本物から作ったコピーのみ現存する。裏付けがない以上論争が続くのは致し方ないとして、彼が日本の考古学界に大きな一石を投じたことは事実である。 昭和60年(1985)明石市文化功労賞受賞の翌日70冊の著書を残し転居した出雲市で83歳の生涯を閉じる。臼杵の生家は直良信夫記念館として一般に公開している。また、劇団文藝による「明石原人・ある夫婦の物語」が全国で公演されており、臼杵でも10月に公演される。
【参考文献】 ◇「明石原人」の発見者 直良信夫生誕100展図録 (明石市立文化博物館) ◇大分の先人たち 心をそだてる物語 「明石原人」の発見に情熱をもやした直良信夫 大分県小学校道徳教育研究会編著(光文書院) ◇大分県歴史人物事典(大分合同新聞社) ◇OAB大分朝日放送制作 なんでも大分見聞録 「太古への情熱・明石原人の発見者 直良信夫」 (二〇〇五年三月二十六日放映) ◆協力:明石市立文化博物館