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特集 おおいた彩発見「大分のお宝」シリーズ其の四 大分の「里山」彩発見 守り継ぎたい、自然と人の営み 日本人の心の原風景、棚田のある里山(別府市内成)「牛」と「椎茸」と「人づくり」に生きる里山(豊後大野市朝地町温見地域)角埋山の自然や歴史とともにある里山(玖珠町森)コラム
先人の軌跡 九重の自然を守る会初代理事長 赤峰武2008チャレンジ!おおいたSPORTS
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先人の軌跡
生涯くじゅうの大自然を愛し、守り、
多くの仲間から”おっとん”と慕われた
赤峰武
九重の自然を守る会初代理事長
[九重町出身]
赤峰武氏の写真
永松秀敏=文
(元大分合同新聞文化部長) 淺田展弘=写真
 昨年12月3日、全国に生中継された「おーいニッポン・私の好きな・大分県」(NHKTV-BSII)の冒頭、湯平温泉行きのボンネットバスが、雪を頂いた九重連山をはるかに望む飯田高原を一直線に突っ走る雄大なやまなみハイウェイが映し出された。久しぶりに見る心のなごむ大草原であった。これこそが、大分県を代表する美しいニッポンだと思った人も多かったに違いない。その5日前、大分市であった「景観シンポ」の中で風景論の第一人者中村良夫東京工大名誉教授が、大自然と道が見事に調和した「風景街道」は、飯田高原を走り抜けるやまなみハイウェイが日本一であると折り紙を付けた。
 この大分県最大の自然遺産をしっかりと守ってきた功労者、それが50年前に「九重の自然を守る会」を立ち上げた初代理事長、赤峰武その人である。赤峰さんは、明治43年(1910年)九重町湯坪に生まれる。兵役勤めの一時期を除き、生涯九重の地を離れることはなかった。生粋の九重っ子である。昭和2年(1927年)、旧制日田中学を卒業。同期生に日本洋画壇の重鎮、宇治山哲平画伯(国画会会員、故人)がいる。得意の絵画を通して、二人は生涯の友であった。卒業後は小学校や青年学校の教師を勤め、昭和18年から2年間兵役を。帰郷後は九重連山のふもとにあった硫黄採掘の鉱業所に労務課長として勤務、のちに飯田高原郵便局長となる。
 この頃から好きな山登りを通して、九重の自然を愛する仲間たちと親交を重ね、九重の大地にのめり込んでゆく。日本は戦後の混乱期から抜け出し、高度成長ブームの入り口に。東京オリンピック(昭和39年)に間に合わせた九州横断自動車道の開通なども拍車をかけ、「くじゅう」が一躍脚光を浴びる。登山者が急増したのはこの頃から。観光客が増えれば、空き缶や紙クズなどのゴミが散乱し、天然記念物ミヤマキリシマの盗掘もあとを断たず、この宝物の大自然を何とか守らねばと山の仲間たちと立ち上がる。それが36年発足の「九重の自然を守る会」であった。町長を会長に、発起人として初代理事長に推される。県内外から200名の参加があった。
 まず直面したのは、後に大きな論争を呼ぶことになる「九重か」「久住か」の名称統一問題である。この地は、標高1700メートル級をはじめ30数峰の山並みを挟んで久住町と九重町に跨る高原と草原が織り成す大パノラマが展開する。片や日活映画「高原児」、片や黒澤映画「乱」のロケ地に選ばれたこともあった。九州最高峰を誇りながら、雲仙、阿蘇などに遅れを取る。
 それが逆に赤峰さんらの時間を掛けた説得に結びつく。県観光のアドバイザー的存在だった加藤数功氏らの意見も尊重。両町の板挟みの中で、良識の落ち着くところ「阿蘇くじゅう国立公園」で一件落着。山並みの総称として「九重連山」の名称を。最高峰を「久住山」と命名することで論争に幕を下ろした。芹洋子の歌う「坊がつる讃歌」の情感豊かな歌声も沈静化に一役買った。
 赤峰さんのもう一つの顔は文人たちとの交流である。ノーベル文学賞作家川端康成の案内役をつとめたことで、飯田高原が「千羽鶴」の続編「波千鳥」の舞台となった。その文学碑が赤峰さんらの手で長者原に建つ。くじゅうの画家高田力蔵画伯もその一人。
 牧の戸峠の植樹、年山自然観察路、欠かさず続けた九重清掃登山、愛の鐘の設置など実績は数知れず。九重への思いは、現会長嶋田裕雄氏ら後輩たちが立派に引き継いでいる。長年の労苦が報いられる時が来て、2005年11月、湿地保護のラムサール条約に尾瀬(群馬など)とともに、坊ガツル(久住)タデ原(九重)の貴重な両湿原が登録された。くじゅうの自然が世界に認められた瞬間であった。2006年3月、湿原の保全に欠かせぬ坊ガツル野焼き実行委員会に大分合同新聞社賞も贈られた。「おっとん」と慕う人たちへの朗報であった。
 生涯、絵筆を離さず絵画に生きた人だけに、美しいものへの感性は並みのものではなく、誰からも愛されるおだやかな人柄は、あのやさしい飯田高原の風土が生んだ申し子みたいな人であった。大分市在住の長男昭武(あきたけ)氏(68歳)は「私の希望を窘(たしな)めることなく、何なりと受け入れてくれた。どこか大様で、何事にも拘泥しない包容力を持っていたように思う」と懐かしさを込めて父武氏を語る。
 観光資源保護で知事表彰、国立公園保護で厚生大臣、環境庁長官表彰。勲五等瑞宝章受賞の2年後、昭和59年2月、74歳でこの世を去る。赤峰さんの生涯を振り返る時、日本の風土が品格のある人物をつくり、その人物がまた美しい自然をつくり上げる。限りない人と自然の営みの上にふるさとおおいたの大地がある。そんな思いに駆られる。
「美しいものを美しいと思う素直な心を取り戻せ」という自然をこよなく愛した赤峰さんの心からの叫びが聞こえるような気がする。
画家 宇治山氏と赤峰氏の写真
画家の宇治山哲平(左)とは日田中学時代の親友。恩師に「哲平より絵が上手」とほめられたことが自慢で、「俺の方が宇治山より絵が上手かった」とよく言っていた
話し合いの様子
「九重の自然を守る会」の設立当初。増えてきたゴミ問題や高山植物の盗採など山の植物保護に係る諸問題について何度も話し合いが重ねられた
文学碑の写真
文学碑の風景
飯田高原にある川端康成の文学碑。赤峰さんの根気強い熱意により建立された
集合写真1
九重をこよなく愛し、「波千鳥」を書いた川端康成(前列左)に初めて九重を案内したのが赤峰さん。以後、この地は川端康成お気に入りの場所となる
集合写真2
局長就任当時は「豊後飯田郵便局」の名称だったが、観光地にふさわしいものに変更しようと尽力。熊本郵政局長を招き、久住登山の案内をして素晴らしさを訴え、ついに「飯田高原郵便局」が誕生した
赤峰昭武氏の写真
赤峰昭武さん。七人兄弟の長男で兄弟はみんな絵を描くが、昭武さんは手先の器用さを生かして竹工芸を趣味としている
竹工芸の写真
三俣山の絵
昭武さんの自宅に飾られている武さんの絵(三俣山)。絵のほとんどは、武さんと縁のあった方からの申し入れに応じ譲り渡した
スケッチブック
武さんが使っていた絵の道具と九重の美しい自然を描いた数十冊にも及ぶスケッチブックは、昭武さんが今でも大切に保管している
坊ガツルの絵
武さんが描いた坊ガツルの絵。坊ガツルはタデ原とともに、湿原や草原の景観維持のため野焼きを復活させるなどの保護活動が行われており、ラムサール条約登録湿地となっている。赤峰さんの精神を受け継ぎ、「九重の自然を守る会」の活動も根付いている



限りない人と自然の営みの上に
ふるさとおおいたの大地がある。
絵の道具
【参考文献】
◇九重町史 赤峰武の項(編集・発行 九重町 (株)ぎょうせい)
◇九重山と久住山の問題(加藤数功著 朋文堂)
◇九重人脈 赤峰先生と九重(大分合同新聞連載)
◇くじゅうの自然(九重の自然を守る会)
◇おっとんたけしょの画文集(九重の自然を守る会 不知火書房)
◇沸沸たる静謐 宇治山哲平(聞き書きシリーズ 西日本新聞)
◇大分県風土記(監修 渡辺澄夫 金子俊一 旺文社)
◇九重風物詩
  (編集 原田種夫 立石敏夫 九重の自然を守る会 梓書房)
◇大分県の歴史(渡辺澄夫著 山川出版社)

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