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語り継ぎたい大分の姿 『城井一号掩体壕』2008チャレンジ!おおいたSPORTS山岳2008チャレンジ!おおいたSPORTS
空手道おおいたの色彩 紺碧(こんぺき)

語り継ぎたい
大分の姿
picture of oita宇佐市
城井(じょうい)一号掩体壕
のどかな田園風景のひろがる宇佐平野。
そこに点在する掩体壕は、
この故郷がまぎれもなく戦場であったという事実を物語る。
文
豊の国宇佐市塾塾頭 平田 崇英
写真
久保 貴史
 宇佐を案内すると、「さすがに宇佐は古墳が多いですね」とよく言われる。宇佐に古墳が多いのは確かだが、時には「掩体壕(えんたいごう)」を指して言っていることがある。「あれは円墳ではなく掩体壕ですよ」と言うと、「エンタイゴウって何ですか?」との質問が返ってくる。「宇佐には戦前海軍の航空隊があって、その飛行機を空襲から守るための、いわば飛行機の防空壕です」と説明している。
 宇佐海軍航空隊は、昭和14年10月1日、艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)の練習航空隊として開隊。艦上機とは航空母艦に載せる飛行機のことで、急降下爆撃や魚雷を投下する訓練をしていた。宇佐は出撃前の最終訓練のための練習航空隊で、ここでの訓練が終わると実戦部隊に配属された。初代飛行隊長の高橋赫一(かくいち)少佐は、宇佐で訓練した部下を連れ、真珠湾攻撃に参加している。真珠湾は勝ち戦で、別府の料亭には祝勝会の折に書いた書が残っていた。「必撃轟沈―ハワイ空襲を終わりて」(高橋赫一少佐)、「待ちに待ったる師走の八日」(坪田大尉)など、文も書も勇ましい。
 昭和20年に入って戦局が悪化すると、宇佐の飛行機も爆弾を積んで、神風特別攻撃隊として154人が出撃した。その中の一人、旗生良景(はたぶよしかげ)さんには愛していた女性がいたが、結ばれることはなかった。出撃の日の日記。『4月28日、只今より出発します。何も思い残すことはありません。お父さま、お母さま、兄さん、姉さん、御幸福に。軍服をぬいで行きます。真新しいのが行李(こうり)の中にありますから、それを家に取って、古い方をT子のところへ送って下さい。必ずお願いします。・・・日本は必ず勝ちます。帝国の繁栄のために、死所を得たるを喜んでいます。心爽やか、大空のごとし。こうしているのも、あと暫くです。さようなら、お元気で。』大正12年生まれ、当時22才。平和な時代であれば現在は80歳を過ぎ、お孫さんに囲まれ幸せな暮らしをしていたことだろう。しかし、戦争の時代を生き、特攻戦死された。こうしたことを知るにつれ、改めて戦争の悲惨さを思うとともに、平和の大切さを感じる。今日の平和は、こうした人々の犠牲の上にあることを忘れてはならない。
 昭和20年3月18日の空襲を最初に、宇佐海軍航空隊は、B29やグラマン戦闘機などの艦載機からたび重なる空襲を受けるようになった。中でも4月21日の大空襲では壊滅的損害を被り、犠牲者は300人とも500人とも言われているが、はっきりした被害は分かっていない。戦後も60年以上経て、宇佐航空隊の出来事を知る人も少なくなってきた。しかし、宇佐にはまだ、10基の掩体壕だけでなく、機銃掃射の跡が残るレンガの建物や防空壕、エンジン調整室、そして双葉山生家そばの海には爆撃訓練に使用していたというコンクリート製の標的など航空隊の遺構が多く残っている。平成7年3月には、城井(じょうい)一号掩体壕が宇佐市の史跡(文化財)に指定され、史跡公園として整備された。戦争遺跡の文化財指定は、沖縄南風原(はえばる)町のひめゆり部隊の陸軍病院防空壕に次いで、全国で2番目。広島の原爆ドームより1年早い。体験者が少なくなった今、掩体壕などの遺構に語ってもらう事が大切だろう。
 豊の国宇佐市塾では、平成元年より「発掘、保存、伝唱」を合い言葉に宇佐航空隊の調査に取り組んでいる。埋もれつつある航空隊や空襲の歴史を発掘し保存していこうと、体験者の方々の証言や写真などを『宇佐細見読本「宇佐航空隊の世界I〜IV」』としてまとめた。特攻隊員を見送った人、掩体壕作りの奉仕活動をした人、空襲を経験した人、それぞれの思いがつづられており、この故郷がまぎれもなく戦場であったということを否応なしに認識させられる。
 もっと多くの人にこの歴史を知ってもらい、“負の遺産”から学んでもらいたいと、ガイドの説明を聞きながら戦争遺構を巡る「宇佐航空隊平和ウオーク」を平成17年から開催している。第3回目となった今年は、県内だけでなく福岡や久留米などから250人余りの参加があり、「地元にいても、このような戦争の遺構があることを知らなかった」、「特攻隊の話しを聞いて、平和な今を大切にしないといけないと思った」など多くの感想が寄せられた。また、終戦記念日の8月15日には、城井一号掩体壕のある公園で他の団体とともに、ローソクを灯して特攻隊員や空襲犠牲者を追悼する「平和の灯」を催し、地元城井地区の小学生も参加している。少しずつだが、宇佐航空隊が語り継がれ、人々の平和への願いが広がりつつある。
 今はのどかな田園風景の広がる宇佐平野。かつて航空隊の飛行場だった一帯は九州有数の麦作地帯として麦畑が広がり、豊かな実りの季節には黄金色の輝きをたたえている。そこに点在する掩体壕は、さらに年月が流れて当時を知る人がいなくなっても、戦争の悲惨さ、平和の大切さを人々に語りかけてくれることだろう。昭和の一時代を物語る風景として、100年後、200年後まで、伝えていかなければならないと切に思う。
宇佐海軍航空隊に関する主な歴史
昭和14年 10月1日 宇佐海軍航空隊が練習用航空隊として開隊される。(隊員数約800名)
昭和16年 12月8日 日本軍のハワイ真珠湾攻撃により大平洋戦争がはじまる。
昭和18年 7月9日 一般人や学徒の勤労奉仕隊により無蓋掩体壕づくりが始まる。
昭和20年 1月初旬 有蓋掩体壕づくりが始まる。
  2月11日 宮崎の赤江基地より、神雷部隊(人間爆弾「桜花」による特攻隊)が約30機の「一式陸上攻撃隊機」で移動してくる。
  3月1日 宇佐海軍航空隊が作戦部隊となる。 
  3月18日 宇佐海軍航空隊が米軍機(グラマン・コルセア戦闘機など)による最初の空襲をうける。
出撃態勢にあった神雷部隊の一式陸上攻撃機が被害を受ける。
 
  4月1日 宇佐海軍航空隊の保有機157機、隊員の定数2,486名。
米軍が沖縄本島に上陸。
神風特別攻撃隊の第1次八幡護皇隊が、串良基地などに進出。
 
  4月21日 米軍重爆撃機(B-29)による空襲をうける。
(住民の死者多数・軍関係の死者約320名)
航空隊は壊滅的被害。三州国民学校(現・柳ヶ浦小学校)、柳ヶ浦高等女学校(現・柳ヶ浦高校)などが炎上。
以降4月26日、5月7日、10日、8月8日にも米軍重爆撃機による空襲を受ける。
 
  5月5日 解隊され、西海海軍航空隊宇佐基地となる。
(残存機26機)
 
  5月7日 八面山上空にて山口県小月基地の陸軍機が米軍機(B-29)に体当たりし、撃墜する。捕虜2名を宇佐基地に連行する。
  8月6日 広島に原子爆弾が投下される。
  8月8日 米軍による空襲で、航空隊周辺の畑田・江須賀地区などが大きな被害を受ける。
  8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。
昭和20年 8月15日 終戦
   
「宇佐航空隊の世界III(豊の国宇佐市塾刊)」より
隊員の写真

特攻隊が出撃したのはちょうど桜の季節。出撃前に宇佐八幡に参詣した隊員は、咲き乱れる桜を目にしたことだろう。その桜の枝を持ち帰り、胸や背に挿して飛び立つ隊員も多かったという
零戦の模型と双眼鏡の写真

実際の2分の1の大きさで、実に精巧に造られている零戦の模型。宇佐文化会館「ウサノピア」の一室に常設された「宇佐海軍航空隊の世界展」で展示されている。他にも、双眼鏡などの遺品が保管されている
城井一号掩体壕の写真1 プロペラの写真 エンジンの写真
城井一号掩体壕の写真2
零戦の本物のプロペラとエンジン。杵築の海で漁師の網にかかって揚げられた


零戦用の城井一号掩体壕。幅21.6m、奥行き14.6m、高さ5.4mの大きさ。日本にある掩体壕の多くは半地下式だが、宇佐のものは地上に造られている。残っている10基のうち、9基は零戦や艦上爆撃機、艦上攻撃機用の小型掩体壕だが、1基だけは一式陸攻を入れていたと言われる中型掩体壕で、小学校の体育館ほどの大きさがある。
当時の隊門発掘された現在の隊門
宇佐海軍航空隊の隊門。平成4年に、宇佐市塾の塾生が請け負っていた浄化槽の埋設工事の際、当時、隊門があった付近で掘り当てられた
防空壕の写真
駅館川東岸に造られた防空壕。横穴が迷路のように掘られている
掩体壕の写真
麦畑の中に点在する掩体壕は、よく古墳に間違えられる。この風景が物語っているものを忘れてはならない
南北二号線の写真
ほ場整備でできた道路(南北二号線)は、宇佐航空隊の滑走路上に造られている。現在の道路幅は16mで、当時の滑走路幅80mの5分の1。「この道を通るたびに、周防灘に向かって操縦桿を引き起こした昔を思い出す」と語る元隊員もいる
モニュメントの写真
特攻隊が飛び立っていくのを手を振って見送った人々をイメージして造られたモニュメント。城井一号掩体壕公園のほか滑走路跡の道路の両脇にもある
モニュメントの写真2
宇佐航空隊に縁のある人により、それぞれの思いが刻まれている
弾痕が残るレンガ造りの壁
レンガ造りの建物の壁に多くの弾痕が残っており、戦争の脅威を今に伝えている
麦畑の写真
航空隊の飛行場だった一帯に広がる麦畑。豊かな実りの季節を迎えて黄金色に染まる風景からは、戦争の面影は想像できない
田んぼの中にある穴の写真
田んぼの中にある直径10mほどの大きな穴は、爆弾が落ちたときにできたもの。大きなものは直径20mもあったが、戦後埋められ、残っているのはこれだけとなった
平田さんの写真 地域おこしグループ
「豊の国宇佐市塾」


塾頭の平田崇英(そうえい)さん

教覚寺の住職。同塾は「ふるさと細見」をテーマに宇佐市の歴史や文化、先人などを研究している。今年から「戦争体験者が減る中、後世に何とか記録を残したい」と戦没者の実態調査を始め、情報提供を呼びかけている。一方、多くの修学旅行生を受け入れている同市安心院町のグリーンツーリズム活動に連携し、平和学習を導入する取り組みも始まった。

連絡先:豊の国宇佐市塾 
宇佐市役所企画課 
電話(0978)32-1111

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