Viento〜おおいたの風〜 2008 Winter ビエント vol.19 目次 ゆっくり、大分 その3 特集 ゆっくり、暮らす 「田舎で暮らす」という、人生の選択。 将来は“半農半パン生活”が理想です。 『キッチンうすだ』 豊後大野市緒方町 臼田朗さん・成美さん 自分で作った野菜はおいしい。 その感動をみんなにも味わってほしいんです。 『ヴィラ フロレスタ』 豊後高田市 大津敬三さん・里子さん 人と人の接触があれば そこで何かが生まれて、楽しくなるんです。 移住サポートサービス『わくわく・らくだ』 別府市  本坂 老さん・美代子さん 語り継ぎたい大分の姿〜地域と食 蘭学文化と「けんちん」 (中津市) 2008チャレンジ!おおいた SPORTS  馬術  ライフル射撃 ゆっくり、暮らす 「田舎で暮らす」という、人生の選択。 長年、都会生活を送ってきた人たちが 「田舎で暮らす」という人生の選択をするとき。 山や海が近く、自然が豊か。温泉が湧く。 魚が新鮮でおいしい。人がゆったりしている。 さまざまな理由で「大分」を新しい人生の地に選び それぞれのスタイルで ゆっくりと時間が流れる田舎での暮らしを楽しむ人たち。 外から飛び込んだ彼らから見た大分とは? 彼らが感じている大分の魅力とは、何だろう? 取材・文=井上裕子 text = Yuko Inoue 写真=竹内康訓 photo = Yasunori Takeuchi 将来は“半農半パン生活”が理想です。 キッチンうすだ 臼田朗さん・成美さん 豊後大野市緒方町  東京から緒方へ移り住んだ臼田さん夫妻が山の中に開いたパン屋を初めて訪ねたのは、今から10年以上前のことだった。山間に田んぼが延々と続く中、車も離合できないほどの細い道をひたすら行くと、突如ぽつんと現れた可愛い店。あのときの驚きと感 激、まだ30歳前後だった夫妻の初々しさ、そして買って帰った天然酵母パンのおいしさを、今もはっきり覚えている。 「こんな山の中までパンを買いに来るお客さんがいるんだろうか」と、店の先行きが実は少々気がかりだったことも。  ところがその“へんぴな店”『キッチンうすだ』は、あっという間に、パン好きが続々押しかける人気店となった。その後、時折訪れるたび、店の隣にあった古家の住居がリフォームされ、一人娘が二人姉妹になり、パン屋の隣にお洒落なカフェができ、そしてガタボコの山道は立派な舗装道になった。現在、店はオープン12年目、臼田朗さんは41歳になり、妻の成美さん、小学4年生の裕子ちゃん、3歳の菜々子ちゃんの4人家族が仲よく暮らしている。  夫妻は東京生まれの東京育ち。朗さんは銀座の人気ベーカリーでパン職人として修行し、成美さんはケーキ作りを手伝っていた。都会人の二人は、そろって田舎志向。朗さんはサーフィン、バイク、クルマ、釣りが趣味で、休日はもっぱら海や山、川へ。成美さんもアウトドア好きでドライブが趣味。「自然の中で子育てをしたい」と最初に言い出したのは成美さんだった。北海道や長野などあちこち見に行き、たまたま成美さんの妹夫婦が先に移住していた旧緒方町で、「ボロっちい平屋」と出合い、「周りに何もないからいいよね」と即決した。  「とりあえず行っちゃおう、行けば何とかなるよ、っていう二人でしたね(笑)。最初は全然お金がなかったので、僕はダンプに乗り、カミさんは役場へアルバイトに行っていました」  間もなく、役場で開業資金が借りられることになった。朗さんがやりたかったのは、当時まだ珍しかった天然酵母のパン。  「科学的なイーストよりいいなと思い、東京でも勉強はしてました。田舎でゆっくりパンを焼くには天然酵母の方が自分に合っている気がして」  手作りで小さな工房を建て、朗さんがパン、成美さんがケーキを焼く店を始めた。パンは天然酵母とイーストの二本立てにしたが、天然酵母のパンは固いといわれて当初はさっぱり売れなかった。売れるのはやわらかいクリームパンやあんパン、クロワッサンばかり。でも続けていくうちに天然酵母パンは味わいがあって腹持ちがいい、というファンも増えてきた。90%天然酵母が目標だが、やっと半々ぐらいまでこぎつけたところだ。近所の人も「田んぼ仕事の合間のおやつに」「孫に送る宅急便に入れたいから」などと、いろんなパンを買って行ってくれるようになった。  山の中の天然酵母パン屋。最近はちょっとしたブームだが当時は異色の存在だった。「どうせならヘンな所でやった方が面白いと思ってました。ダメなら米や野菜を作りながらちょこっとパンを焼くのもいいかなって(笑)。将来は“半農半パン生活”が理想だけど、今はパンの方が忙しくて、ほったらかしの家庭菜園がわずかにあるだけです」  パンやケーキの材料は、国内産小麦粉、平飼有精卵、きび砂糖、自然塩、湧水など、より自然に近く安全なものを選んで使う。天然酵母もオーガニックレーズンからおこす自家製。四季のあるパン・ケーキ作りがモットーで、地元で採れる旬の野菜や果物、それもできるだけ無農薬のものを使う。でも「こだわってる、という言い方は大嫌い。当たり前のことをやっているだけだから」。  一人で作れる範囲を守り、作りたいものを作る。それは利益や規模拡大を求める都会のパン作りとは違う、「田舎のパン屋」ならではの選択だった。 知らない土地に飛び込むのは面白いし、やりたいことが自由にやれる  一家が住む平石地区の鹿屋集落はわずか6軒。狭いムラ社会にヨソ者が入るのは容易でなかったが、「地域に溶 け込めるようにと隣家のご主人がいろんな所へ誘ってくれたんです」。朗さんは獅子舞組合に入って祭りで獅子舞を舞い、しめ縄作りも覚えた。草刈りなど地区の行事には必ず参加し、葬式には店を休んで夫婦で手伝いに行く。最初は「敬遠されてる感じだった」近所の人たちにも徐々に受け入れてもらえるようになった。  自然に囲まれた暮らしは、子育てにもゆとりを与えてくれた。「子供が騒いでも周りに気を遣わなくていいからほとんど怒ることもないし、お互い幸せですよね」と成美さん。週2日の休みには家族で近くの渓谷や森へ出かけたり、別府や長湯の温泉に行ったり。「たまに街にも行きたくなるけど、行くと疲れるんです(笑)」  店を核に人の輪も広がった。「ものづくりをする人や職人、外国人などいろんな人との出合いがあって、東京にいたころより知り合いが多いんですよ」と朗さんは感慨深げ。そんな人たちの助けを得て、3年前、念願のカフェもオープンできた。  「知らない所で不安じゃなかったですか、とよく聞かれるけど、未知の地に飛び込むのは面白いし、やりたいことが自由にやれる。だからこそ細々でも続けてこられたんだと思います」。次なる野望は、移動サンドイッチ屋。“半農半パン生活”にはまだ遠いが、一家はこの地にしっかりと根を下ろし、新しい10年に向けて歩き始めたところだ。 キッチンうすだ 豊後大野市緒方町平石2433  tel 0974-42-4128 自分で作った野菜はおいしい。その感動をみんなにも味わってほしいんです。 ヴィラ フロレスタ 大津敬三さん・里子さん 豊後高田市  ヴィラの丘は、空が青く大きかった。空いっぱいに広がって形を変える雲と幻想的な山の眺めが、訪れる者を惹きつける。  ストーンサークルで知られる猪群山をはじめ、国東の山々を目の前に望む高台の宿泊施設『ヴィラフロレスタ』。ここでファーム&コテージマネージャーを務める大津敬三さん(43)は、5年前、群馬県から大分市へ一家5人で移住してきた。生まれは北九州市、高校卒業後は鳥取、長野など点々として、結婚後は妻・里子さんの故郷、群馬へ。 「いずれは九州へ」との思いはずっとあって、自然豊かな大分県、なかでも豊後高田市は、「字面が気に入っていたのと、国東半島の丸い形が好きだったので」昔から気になっていた場所だった。  まず先に、北九州にいた敬三さんの両親が、退職後、自然を求めて豊後高田へ移住。その後、大津さん一家も長女の小学校入学を機に、病院施設で畑の管理をする職を見つけて大分市へ引っ越した。  「長野の自然の中で畑仕事と関わったのが出発点で、将来は農業で食べていきたいと思っていた」というほど、野菜作りが好きだった敬三さん。1年後に豊後高田へ転居し、『ヴィラフロレスタ』の宿泊施設と付随する600坪の菜園管理を任されて、農薬や化学肥料に頼らないEM農法(*)に力を入れるようになった。市内で同様の野菜作りを推進する農家にも学び、昨年4月、人の輪を広げたいと「ヴィラの会」を立ち上げた。会員は豊後高田市近郊でEM農法による農業や家庭菜園を営む人たち約20人。月1回、集まって勉強会を開き、会員が作った野菜は市内のスーパーなどに出荷している。大津さんたちの野菜は主に宿泊者の食事用や館内のレストラン『サールナート』などに使う。  「自分で作った野菜は本当においしい。ただ単においしい野菜を食べたい、そしてその感動をみんなにも味わってほしい。農業をやる根底にあるのは、そんな気持ちなんです」と敬三さん。宿泊者にも畑仕事の喜びを体験してほしいと、ハサミと鍬を渡し、収穫を楽しんでもらう。 *EM農法=有用微生物(EM)を活用した自然農法。 ヴィラの丘の風が人と人を引き寄せてくれた。  ヴィラの会メンバーの植松章さん(54)は横浜出身。28年間、横浜でラーメン屋を営んでいたが、2年前に豊後高田へ妻の隆美さんと移り住み、畑を借りて二人で農業に精出す日々を送っている。隆美さんは大阪出身、服飾業界で20年間パタンナー(洋服の型紙作り)の仕事をしてきたが、「そろそろ人生を変えるのもいいなと思いました。都会に未練はまったくないですね」ときっぱり。  「いずれは自給自足の暮らしをしたい、引っ越すなら明るくて開放的なイメージのある九州、と決めていました。飲み屋やパチンコ屋のネオンはもう卒業したしね(笑)。こっちに来て一番感じるのは、開放感。空の青さも空気の匂いも違う」と章さんはいう。朝起きて畑、昼ご飯を食べて畑、暗くなったら家でゆっくり、という今までと180度違う生活。「自然の中での暮らしは、生きている充実感がある。周りの人たちにも恵まれて、ほんとに来てよかった」と二人は声をそろえる。  同じくメンバーの松尾恒良さん(66)は、福岡市で会社勤めをしていたが、60歳の退職を機に豊後高田へ。古い民家に暮らしながら、畑5反、田んぼ4反半、みかん・栗畑3反と茶畑少々をほぼ一人で切り盛りし、「一年365日畑仕事、いや367日ぐらいかな(笑)」というほど農業三昧の日々を送る。妻のカツヨさんは福岡でソフトボールの審判をしているので、週1回、福岡と豊後高田を往復する生活だ。  ヤマメ釣りが好きで、アウトドア雑誌『BE|PAL』や『田舎暮らしの本』を愛読していた恒良さんは、退職後は釣りを楽しもうと田舎への移住を計画。「真玉の海に夕日が沈む風景が、生まれ育った有明海と似ている」とこの地を選んだ。ところが農業と出合い、「生き方が変わった」という。  「種をまいて芽が出るときの感動が、今も続いているんです。もう農業にどっぷりで、釣りに行く暇がないですね」  除草剤も農薬も化学肥料も使わず、慈しんで育てた野菜や米は、福岡に口コミで顧客が広まり、カツヨさんが福岡へ帰るときに毎週運んでいる。  旧真玉町出身の瀬口彰治さん(57)は、昨夏、大分市内で25年間営んだインドカリーの店を閉め、『ヴィラフロレスタ』内に『サールナート』をオープンした。野菜はヴィラの会のものを中心に使う。ここに決めたのは、丘からの眺めに妻のゆみさんが一目惚れしたのと、大津さん夫妻の温かな人柄に惹かれて。  「こんな田舎でやっていけるか不安でしたが、以前の常連さんはもちろん、地元のおじいちゃん、おばあちゃんがカレーを気に入って食べに来てくれるのが嬉しい。ここは野菜、米、水、空気、景色、いろんなものが今までと違う。生まれ変わったような暮らしです」と故郷へのUターンを喜ぶ。  この地にはなぜか、北海道から沖縄まで県外各地から来て住みついた人が多いという。外に出したテーブルを囲み、みんなで山を眺めながら話が弾むひととき。ゆっくりとした時間が流れていく。  「ヴィラの丘の風が、人と人を引き寄せてくれたのかも知れないですね」。これからどんな輪に広がっていくのか、楽しみである。 ヴィラ・フロレスタ 豊後高田市西真玉6337-41 tel0978-23-4050 http://www.showanomachi.com/villa 人と人の接触があればそこで何かが生まれて、楽しくなるんです。 移住サポートサービス[わくわく・らくだ] 本坂 老さん・美代子さん 別府市  本坂老さん(68)が長年勤めた企業を退職し、妻の美代子さんと別府の温泉付きマンションに移り住んで丸5年。地域のスポーツクラブやカルチャー教室、温泉、旅行などを夫婦で満喫している。  仕事人間だった老さんが地域の人と初めて知り合ったのは、一足先に別府に住んだ美代子さんが独断で申し込んでいたカルチャーセンターの講座だった。男の料理教室と英語教室。「そこからどんどん地域の人との付き合いが広がっていきました」  老さんは熊本、美代子さんは鹿児島の生まれ。設計の仕事に就いていたサラリーマン時代は、姫路や大阪、北京へも転勤し、大分市にも30〜40代の約17年間と退職前の4年間、住んでいた。  「でも大分にいたころ、別府は通過するだけのまちで、住みたいと思ったことはなかったんです」  退職後を考えたとき、終のすみかの条件は、好きな海に近いこと、気軽に散策できる山があること、鉄道の便がいいこと、病院があることだった。  「息子が関西にいるので神戸を見に行ったんですが、市場を見て回ったら魚が豊富じゃなかった」  退職前の大分時代、別府の温泉に行ったついでに街を歩き、分譲マンションのモデルルームを見て心が動いた。「別府なら温泉があるし、海に近く魚も新鮮。ここは静かで駅にも歩いてすぐ。しかも関西に比べると安い」と購入を決める。マンションの部屋から別府湾と高崎山が眺められ、1階に共同温泉が備わっているのは別府ならでは。「最初は嬉しくて1日4回も入ってました(笑)」  そのうち同じ時間帯に入る住人同士で“フロ友”ができ、飲み会や遊びを次々計画。夫婦で参加した市のスポーツ教室では、同志が集まって自主講座を結成し、週1回、爽やかな汗を流す。  「人と人の接触があれば、そこで何かが生まれて楽しくなるんです。会社生活で培った知り合いは大勢いるけれど、リタイアしてからは、同期やジャンルの違う地域の人の方が大切です」  楽しみ上手な夫妻は、朝起きて天気がよければ近くを散歩したり、弁当を買ってドライブしたり、別府湾一望のカフェでお茶したり。今日は飲みに行こっか、と夫婦で話がまとまると、電車で12分の大分市へ。オンパク(*)ではお得な体験ツアーにもあれこれ参加した。「安くて楽しめるものを見つけるのが得意なの。夫婦で年金を2倍楽しむのよ」とカラカラ笑う美代子さん。  別府を誰よりも楽しんでいる先輩移住者として、老さんは昨秋から知人が立ち上げた『NPO法人セカンドライフ倶楽部』の移住サポートサービス『わくわく・らくだ』に参画。事務局を任され、別府に移住した人が楽しく暮らせるネットワーク作りに力を注いでいる。  「別府に住んで、環境のよさはもちろんだけど、地域の人たちとのふれあいが何より楽しい。別府ってほんとにいいな、と今実感しています」 *オンパク(別府八湯温泉泊覧会)=別府の 体験・参加型観光イベント わくわく・らくだ事務局(本坂)tel0977-23-4520 NPO法人セカンドライフ倶楽部(トータルブレイン) tel0977-26-7288 http://www.nichiiki.net/nichi/modules/ko02 ゆっくり暮らしてこそ、大分は楽しい。 山や海や原っぱが近くにあって、いつでも思い切り深呼吸できる。 風の匂いや雲の移り変わりが、暮らしの中に感じられる。 獲れたての魚や旬の野菜が、普通に手に入る。 地域の人の「顔」が見えて、人と人が交流できる。 大分にずっと住んでいる人たちには、ごく当たり前のそんなことが 都会ではとっくに失われてしまっている。 その代わりに手に入れたたくさんの便利なモノに、 価値が感じられなくなったとき、人は“田舎”に憬れるのかも知れない。 田舎暮らしを快適にするコツは、「ゆっくり」を楽しむこと。 そして「人」を好きになること。 今回の取材で出会った人たちはみんな それをしっかりと実践している、田舎暮らしの達人だった。 語り継ぎたい大分の姿〜地域と食 picture of oita 毎日の生活や季節の行事の中で親しまれてきた地域の料理は、その地の気候風土や歴史、生活を物語っている。そんな県内各地の「食」を訪ね、食文化を通して地域を見つめる。 中津市 蘭学文化と「けんちん」 中津−蘭学−けんちん その意外な関わりをひもとく 文=井上 裕子 写真=久保 貴史  企画協力=金丸 佐佑子 江戸時代、中津の医師が 長崎で出合った中国料理がヒント  中津地方に伝わる「けんちん」という菓子がある。漢字では「巻蒸」。豆やきくらげ、銀杏を葛粉で固めて蒸す、ぷるるんとした食感の菓子で、ほんのり甘い。もとは慶弔用の料理菓子だが、今は菓子店や料亭など数軒で土産用に作られている。「けんちんって、けんちん汁のこと!?」と言われることも多い、隠れた地域の味である。  ルーツは江戸時代にさかのぼり、中津の医師・田中信平が長崎で医学を学んだ際に出合った中国料理「巻蒸」が原型といわれる。田信さんの名で知られた氏は、書画や骨董、料理にも造詣が深く、天明4年(1784)、日本最初の本格中国料理解説書『卓子式』を著している。当時の中津は、多くの医師が長崎で蘭学(*)・蘭方医学(**)を学び、新しい空気を持ち帰った地であった。  中津−蘭学−けんちん。その関わりはいかに?  けんちんを土産品として世に出したことで知られる『甘味本陣』では、二代目社長・幸野暢充さんがけんちん作りの真っ最中だった。大鍋に水と十六寸(白いんげん豆)、きくらげ、砂糖を入れて煮立て、吉野葛、小麦粉を加えて大きな木べらで練る。粘りが強く力の要る作業だ。練り上げたものに銀杏を混ぜてせいろで蒸し、一晩ねかせて仕上げる。  取材に同行した金丸佐佑子さん(生活工房『とうがらし』主宰)が、「私はどんな料理でも作るけど、これだけは家で作ろうと思わないわね」と言うほど、手間暇と経験を要するものらしい。  「この辺りでは昔、結婚式や葬式、棟上げなどの折詰めには淡雪や羊羹と一緒に必ずけんちんが入っていて、持ち帰るのを家族みんなが楽しみにしていたものです。でも今はそんな風習もなくなりましたね」と幸野さん。けんちんを作れる職人もめっきり減ってしまったという。  田信の著書『卓子式』には、「巻蒸」の料理法は、肉やきくらげ、椎茸などを炒め、酒と醤油で味付けして小麦粉を入れたものを湯葉で巻き、巻き止めに水でといた葛粉をつけて揚げるか蒸す、とある。いわば春巻きのようなものだ。田信さんの伝えた巻蒸をヒントに時代とともに手が加えられ、今の形になったものか。  金丸さんによると、けんちんにそっくりな「イギリス」という料理が長崎にあるという。野菜や魚を海草で寄せたもので、味はまったく違うそうだが、かつて蘭学が栄えた長崎と中津は食にもつながりがあるようで興味深い。 *蘭学=江戸時代、オランダ語を通じて学ばれた西洋の学問。鎖国政策により西洋諸国の中でオランダだけが幕府より貿易を許された(長崎はその唯一の港だった)ため、オランダ語を介して受け入れられることとなった。医学・本草学関係の学問から次第に語学、その他諸分野にわたって発達した。 *蘭方医学=江戸時代、オランダ人を通じて伝えられた西洋医学で、その内容は主として外科に関するものだった。 外国文化を率先して取り入れる 中津人のハイカラ気質  ではなぜ中津に蘭学なのか。大きな要因は“蘭学好き”の殿様だった。江戸中期以降、豊前中津藩を治めた奥平家の藩主たちが蘭学研究を熱心に支援したお陰で、多くの蘭学者・蘭方医が生まれたのである。  その一人が3代・奥平昌鹿。母親の骨折を長崎のオランダ通詞(通訳)が見事に治療したことから蘭学に関心を持ち、江戸詰めだった中津藩医・前野良沢を連れ戻して、長崎へ勉強に行かせた。良沢はその後、杉田玄白らと江戸で解剖を見学。オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』の絵と見比べながら見学したところ、実物そっくりなのに驚き、翌日から玄白らと同書の翻訳に着手する。3年後の安永3年(1774)、『解体新書』として刊行され、「日本の科学史はここから始まった」とまで言われる先駆的なものとなった。家臣に蘭学の勉強を命じ、高価な医学書の購入も援助した“ハイカラ殿 様”のお陰で、中津からわが国近代医学へのトビラが開かれたのである。  その後の医学・蘭学の歴史は、中津を代表する2つの医家の所蔵品などを中心に開設された『村上医家史料館』『大江医家史料館』(いずれも中津市歴史民俗史料館分館)においてたどることができる。  村上家は寛永17年(1640)、中津市諸町に開業以来、現在まで続く医家。七代・玄水は文政2年 (1819)、九州初の人体解剖を中津で行い、その記録『解臓記』『解剖図』を残した。東洋医学主流の時代に解剖許可の英断を下したのは五代藩主・奥平昌高。自身も蘭学者で、家臣に命じて日蘭・蘭日辞書の出版も行っている。この解剖を境に、医学の流れは漢方主流から、解剖をして蘭学を学び、漢方にそれを活かす方向へと変わっていった。  大江家は宝暦8年(1758)以来、代々御典医を務めた医家。大江雲澤は世界最初の全身麻酔手術を行った華岡青洲の流れをくむ医塾に学び、自らも多くの門人を育てた。この他、種痘の研究に力を注いだ辛島正庵、江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾(後の慶應義塾)を開いた福沢諭吉など、そうそうたる人物が中津から出現。明治に入ってドイツ医学が主流となるまで、中津は常に新しい風に満ちた地であった。果敢に人体解剖に挑んだ先人の勇気と先進性。苦心して翻訳や辞書作成を成し遂げた熱意。彼らを物心両面から支援した藩主たちも、アッパレである。  「けんちん」もまた、中津人のそんな先取の心意気を伝えるものかも知れない。旧田信邸跡に建つ南部公民館では、市食生活改善推進協議会南部支部のメンバーらが、「田信さんゆかりの地で、けんちんを代々伝えていこう」と、小学生にけんちん作りを教え、毎年「田信まつり」でけんちんをふるまう活動を続けている。  「そんなふうにみんなで田信さんのことを勉強していくことは、中津ってすごい、という地域の人たちの誇りにつながるもの。食べ物を通して学んだことは忘れないですよね」と金丸さん。江戸の医師が伝えた「巻蒸」は、形を変え、これからも地域の中で受け継がれていくことだろう。 地域の味レシピ 「けんちん」の作り方 (レシピ提供:中津市食生活改善推進協議会) [材料(むしセイロ1枚分)] 乾十六寸豆  350g   乾きくらげ  80g 砂糖     1.7kg      濃口しょうゆ 144cc 小麦粉    250g     吉野葛    250g [作り方] ・十六寸豆は7〜8時間水に浸ける。 ・・を火にかけ、豆が踊るように30分間沸騰させ、豆がやわらかくなったら水を捨てる。 ・きくらげは水に浸して戻し、根元の固いところを切り落として線切りにする。 ・大鍋に・と・を入れ、砂糖、しょうゆ、水900ccを加えて5分ほど沸騰させ、540ccの水でといた吉野葛を入れて強く混ぜる。 ・粘りがある程度出たら火から下ろし、ふるいにかけた小麦粉をふり入れながらよく混ぜる。 ・セイロにセロハンを敷き、・を入れてセロハンを上にかぶせ、火にかける。 ・2時間蒸す。途中、1時間ほどたったら水を継ぎ足し、セイロの上下を入れ替える。 ・蒸しあがったら、そのままの状態にしておき、24時間たったらセイロから取り出して、適当な大きさに切り分ける。 けんちんが味わえる場所 昔は多くの店で作られていたが、今では「甘味本陣・殿畑双葉堂・筑紫亭(要予約)」の3ヵ所で購入できるのみとなった 城下町・中津に伝わるお菓子 中津には「けんちん」の他にも、歴史あるお菓子が今も残り、地域の人びとから愛されている。 【丸ぼうろ】  中津地方ではお通夜やお盆などの仏事に丸ぼうろを配る風習が、最近まで残っていた。これも南蛮菓子を元に作られたもので、藩主・奥平昌高の娘、子姫が臼杵藩に嫁いだ後、郷里からの贈答品の目録に「中津芳露」の記述がある。今もなお、中津市内のほとんどの和菓子屋で作られている。小麦粉・卵・砂糖を主原料に作る素朴な菓子で、佐賀のが有名だが中津のは2枚合わせになっているのが特長。 (取材協力:進栄堂) 【外郎饅頭】  中津に外郎とは意外な感じがするが、これも中津を代表する菓子。外郎は細長い棹形が一般的だが、中津のは丸形で花を模した可愛らしいもの。外郎は薬が転じて菓子になったという言われがある。中津では江戸中期に福岡の寺から製法を学び、作り始められた。米粉、砂糖、生姜などを混ぜた生地を型押しして蒸しあげる。もちもちした食感とほんのり香る生姜の風味が格別で、あん入りとあんなしがある。 (取材協力:栗山堂) 2008チャレンジ!おおいた SPORTS 写真= 杜多 洋一 信頼関係が生み出す 巧妙な技 馬術  ピンと背筋を伸ばして呼吸を合わせ、目の前をさっそうと駈けていく。その姿は、どことなく優美な雰囲気をまとっており、他のスポーツとは違う優雅さを感じる。近くに寄って見ると、迫力ある大きな体とは対照的に優しくて人なつっこい目。好奇心旺盛な馬は興味津々に顔を寄せてくるが、臆病な馬は逃げてしまう。  「馬はものすごく神経質な生き物なんですよ」と話すのは、県馬術連盟理事長の衛藤賢二さん。衛藤理事長と乗馬の出合いは、旧三重農業高校(現三重総合高校)在学時。ちょうど1巡目大分国体(S41)を控え、県が東京オリンピック(S39)の出場馬を購入し、同校に馬がやってきたのである。衛藤さんは、馬の立ち姿を見て「かっこいいなぁ」と一目惚れ。早速馬術部に入部した。部員は、何もないところに自分たちの手で馬場を作るところからスタートしたという。「夏休みは泊まり込み、授業も一部免除。とにかく馬場づくりが優先されました」。馬場が完成すると次に待っていたのはスパルタ練習。その甲斐あって、翌年には国体で3位の成績を収める実力までになった。  さて、練習が始まってすでに1時間。選手はまだゆっくりと馬を歩かせ、姿勢や視線などの基礎練習に余念がない。バーを飛び越えたりの迫力シーンはまだかなぁと心待ちにしていたが、障害物の練習は競技会前にしかしないと言う。馬と信頼関係を築くためには、常に馬の調子を見ながら基本を繰り返すのが重要で、十分に常歩の練習をしてから速歩、駈歩と進めていくのだそうだ。「いきなり走らせたりするのは馬に対して失礼なんですよ」と衛藤理事長。馬を愛し、馬を理解し、いつでも自分の指示に喜んで従い、どんな難しい障害でも勇気を持って確実に飛び越せるように教え込んでいく。選手だけが優秀でも馬だけが優秀でも良い成績を残すことはできない。選手が馬の能力を最大限に引き出し、馬も選手の要求に精一杯応えようとする関係が結ばれたときに、はじめて「人馬一体」となった最高の技になるのだという。  練習後の厩舎では、選手たちが丁寧に馬の手入れをしていた。衛藤理事長は、馬の世話ができない選手は馬を乗りこなせないと断言する。「愛情を持って馬の世話をしていないと馬の心理は分かりません。馬はきれい好きでデリケート。毎日の掃除や水替えをしながら体調を気遣います」。そうするうちに馬はだんだん乗り手に似てくるという。雑な手入れをしていると馬の動きも雑になるのだそうだ。競技だけを見ると華やかで優雅な世界に見えるが、その裏には毎日の地道な世話がある。競技会という舞台は馬術競技のほんの一部分でしかなく、日常の世話を通じて馬とコミュニケーションをとることの方が実は大部分を占めるのだ。  先の秋田国体では、馬インフルエンザが流行し、競技自体が中止となってしまった。大分県の馬も感染してしまい、回復するまで秋田に残って世話をしたのは、息子の衛藤敬三さん。同乗馬学校でコーチを務めながら、選手としても活躍している。「言うまでもなく、馬がいてこそのスポーツなので馬が一番」という衛藤選手。元気に回復した馬たちの姿を見つめながら、「地元開催の国体に、現役の良い時期に出場できるという機会に恵まれました。総合優勝を目指します」。この言葉が馬にも伝わったのか、心なしか馬の表情が引き締まった気がした。日々のコミュニケーションにより築かれた強い絆は、息のあった技となり、観る者を魅了するであろう。人馬一体の巧妙が目の前で繰り広げられる様子を想像するとワクワクしてきた。 ●馬術とは… 馬場馬術競技、障害飛越競技、この2種目の合計で順位を決める総合馬術競技の3つがある。馬場馬術競技とは、馬場内をさまざまな運動を演じるもので、前進・停止・後退をしたり、斜め・円形・波形に馬を進めたりして、馬の調教レベルと騎手の技量を競う。人馬のハーモニーと美しさが見どころ。障害飛越競技とは、高さ・幅・色彩・形状の異なる障害物をミス無く飛越していく競技で、障害物のバーの落下や障害物前での拒否などのミスがあると減点になる。迫力あるダイナミックな動きは見ものである。 じっと動かない。 それが勝負の決め手 ライフル射撃  初めて足を踏み入れた射撃場。「パーン」という乾いた音が響き、緊張感を保った独特の空気が漂う。銃を使用しているだけに、他のスポーツと違って声援が飛び交うという雰囲気ではない。周りの者はじっと見守る。「だから、興味を持って見学に来た人や付き添いの人はみんな面白くないって言うんです。この競技は実際にして楽しむもの。ただ見ているだけではつまらないですよ」。県ライフル射撃協会の福恵理事長はそう話す。  競技は至ってシンプルで、銃についているサイト(照準器)を使って銃の向きを微調整し、照準を合わせ、トリガー(引き金)を引く。ただそれだけだ。しかし、サイトには光量を調整するフィルターが備えられているだけで望遠レンズなどは装着されていない。標的の真ん中にある10点満点の直径は、10m用でわずか0.5mm、50m用でも1cmしかない。実際にサイトを通して50m先の標的を確認させてもらったが、何とか点らしきものが視認できる程度だ。また、トリガーはほんの少しの力を加えるだけで弾が出るように調整されており、銃に余計な力を加えずに必要最小限の力で引く繊細な感覚が必要とされる。撃発の瞬間に銃が揺れないよう、全神経を集中させて細心の注意を払うのだという。  スポーツというと体を動かすことだと思いがちだが、ライフル射撃はいかに体を動かさないか、つまり、いかに一定の姿勢(フォーム)を保てるかが勝負の決め手となる。したがって、体の動きを束縛して銃を安定させるため、革や堅いキャンバス生地(かなり厚手の布)製の動きにくいユニフォームを着用する。さらに、銃を構えるのも筋力で支えるのではなく骨格で固定させるのだという。静のスポーツとされる標的競技の中でも、発射のために筋力を用いることがないライフル射撃は、最も静的なスポーツと言える。競技歴31年のベテランである宿利紀美子選手は「運動会のヒーローになれなかった人が国体に出場できる競技です。私も子どもの時、運動会の朝にはお腹が痛くなるくらい運動が嫌いだったのですから」と笑う。  射撃競技は「銃」という、使用法を間違えば人を傷つける道具を使用するため、危ないとか怖いとかいうイメージが伴い、特定の人だけがするものと思われがちだ。「射撃をしていると言うと、周りの人から特別な目で見られたり、冗談で『怒らせると撃たれるかも』などと言われたりしますが、競技者は何より安全管理の重要性を認識しています」と宿利選手は強調する。銃を所持するには、定められた講習会を受講し、都道府県の公安委員会から許可を受ける必要がある。携帯・運搬・発射についても法律で細かく制限されており、厳重な保管義務もある。つまり、知識と良識を備えた人だけに許されるスポーツなのだ。  また、「動きがないので捻挫やケガの心配もなく、他のスポーツよりよっぽど安全」とも。なるほど。意外にも、誰でも親しめる安全なスポーツなのである。年齢や性別を問わずハンディなく同じように戦えることから、外国では万人のスポーツ(ユニバーサル・スポーツ)として普及しており、オリンピックでも陸上や水泳に次ぎ参加国が多いという。  老若男女が対等にできるライフル射撃。その上、見ていても全く面白くないと言われるとやってみたくなる。「まずは、所持の許可が必要なく、誰でも気軽に楽しめる光線(ビーム)銃を試してみるのがよいですよ」と選手の皆さん。競技の理解者を増やし、選手だけでなく多くの人で国体を盛り上げよう。 ●ライフル射撃競技とは… ライフルやピストルの銃を用いて、弾丸や光線(ビーム)で標的を撃つ競技。銃の種類は、火薬の力で弾丸をとばす火薬銃(スモール・ボア・ライフル〈SB〉)、空気の力で弾丸を飛ばす空気銃(エア・ライフル〈AR〉、エア・ピストル〈AP〉)、光線を発射する光線銃(ビーム・ライフル〈BP〉、ビーム・ピストル〈BP〉)がある。標的までの距離は、ARが10m、SBが50mと決まっているので、ARは「10m」、SBは「50m」とも呼ばれる。射撃姿勢は「立射(Standing=S)、伏射(Plone=P)、膝射(Kneeling=K)、肘射(Table Plone=T)」がある。制限時間内に決められた姿勢で決められた弾数を撃ち得点を競う。 写真集 おおいたの色彩 伝統色で伝える 日本には古くから伝わる 多くの「色」があります 昔の人は、あらゆる風景などから 多くの「色」を表現し 美しい名前をつけました 古代の色感 色名の雅な響きは 今日のわたしたちにも 共感しうるものです 大分の風景を 日本の伝統の美意識で伝えていきます 黄丹 黄丹は皇太子の袍の色。 この色をあけぼのの太陽の色とみて、「やがて王位につくもの」を意味している。 闇の中からはじめに生まれる光の色は静粛な風景だ 小鹿田焼の釜で焼かれる炎の色。何かを生み出す色でもある。 Viento(ビエント)は スペイン語で「風」を意味します。 大分県は美しい自然に恵まれ、歴史や文化も豊かです。先人の足跡や業績の上に新しい大分県をつくっている、元気いっぱいの風も吹いています。自由な発想と熱い思いを持って躍動する人々や地域とともに、大分の魅力をお伝えします。 発行回数:年4回(季刊) 配布先:里の駅・道の駅・銀行・郵便局・病院・公民館・図書館 など 一般配布用は、県振興局や市町村の広報窓口においています。  編集後記 「田舎には何にもない」とよく言われますが、今回の取材で、気付いたことがあります。それは、田舎の風景というのはひとときも同じではないということ。太陽の光や風の流れで、空は、山は、海は、常に違った表情を見せています。それはゆっくり暮らすことを心がけてこそ気付くもの。大分の魅力にひかれて来た人たちが、大分の楽しみ方を教えてくれました。「語り継ぎたい大分の姿」では、大分の魅力を新たな視点から伝える「地域と食」編が始まりました。改めて…、大分っていろいろありますよ。 本誌に対する ご意見、ご感想をお聞かせください。 送付先 〒870-8501 大分市大手町3-1-1  大分県広報広聴課 Viento係 Tel.097-506-2094 Fax.097-506-1726 大分県庁ホームページ http://www.pref.oita.jp/