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広瀬武夫 -日露戦争に没した海軍軍人-

印刷用ページを表示する 更新日:1985年8月1日更新

1985年8月号 広報おおいた

広瀬武夫 -日露戦争に没した海軍軍人-

説明

竹田市広瀬神社の鳥居前に建つ広瀬武夫の胸像。全身像(M40.4渡辺長男作)をもとに製作し、昭和48年3月に設置された。
日露開戦間もない明治37年早春。日本海軍は旅順港内のロシア太平洋艦隊を封殺するため、閉塞作戦を実施した。旅順港入り口に老朽船を沈め、敵の航路をふさごうという危険な作戦である。軍艦「朝日」の水雷長(当時少佐)広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃した。二度目の出撃のさい、予定地点で福井丸の爆薬に点火、退避するが部下の杉野兵曹長の姿がないのに気付き、沈みゆく福井丸にとって返し、ついに散弾に斃(たお)れる。37歳であった。広瀬は明治元年、竹田市の士族の二男坊に生まれる。兄も海軍軍人。海軍大尉時代にロシア駐在武官となり、この間ヨーロッパ各国を視察した。漢詩を愛し、ロシア語に熟達、講道館柔道に熱中(六段)する。風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男だが、軍人にしては珍しい幅広い視野を持っていた。滞露中、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名である。若い頃は侠客清水次郎長ともつき合いがあった。人間広瀬の周囲にはいつもほほえましい話題が尽きない。

場所

場所:竹田市

カテゴリー

食・文化・史跡

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