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本耶馬渓

印刷ページの表示 ページ番号:0002059001 更新日:2019年4月19日更新

山国川に導かれ

川の両岸に次々と姿を現す耶馬渓の景勝地。
どうしようか迷ったら、行き先は山国川に任せてみる。
川はかつて、道だったのだから。

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(No.1) 仏坂の景

 その名は、中津市の正行寺の本尊阿弥陀仏が玖珠からお渡りの際に送る側と迎えの僧が仏坂で出会い、そこから正行寺へ背負って帰ったことに由来しているという。本耶馬渓の入口に位置し、国道212号沿いにそびえる。山国川の対岸、県道16号の大平橋辺りから河岸に出るとよく見える。(Pなし)
2

(No.2) 競秀峰の景

 山、川、人の営みの三位一体の織り成す景観はまさに、耶馬渓の景勝地たる要素がすべて揃っているといえる。山容を眺めるのなら山国川を挟んで対岸からがおすすめだが、峰の上から見下ろす山国川をたたえた本耶馬渓の眺めも素晴らしい。(P青の洞門駐車場・トイレあり)
3

(No.3) 大平山の景

 山国川を挟んで耶馬渓の東門を八面山とするならば、西門は大平山といえるだろう。その山肌は競秀峰と同じ集塊岩に覆われ、競秀峰の上から見る山容は勇ましい。中腹部の岩壁が群立する様は耶馬渓橋からも望める。雁股山から続く九州自然歩道の一部でもあり、青の洞門へと続く。(P耶馬渓橋公共駐車場)
4

(No.4) 犬岩・犬走りの景

 山国川が鹿嵐山から流れる跡田川と合流する場所にあり、川床の岩は流れの勢いに削られ様々な形を成している。その様が犬に似ていたことからこの名がついたが、整備や洪水により現在は分かりづらい。しかし、川越しに眺める競秀峰はいい。国道500号の下にかかる沈下橋辺り。(P青の洞門駐車場より徒歩5分)
5

(No.5) 羅漢寺の景

 耶馬渓層の凝灰角礫岩からなる標高270メートルの岩峰。その山腹の岩洞に建造された羅漢寺。自然景観と建築物が渾然一体となった様が名勝たる所以である。本堂へは、羅漢寺駐車場から北へ400メートルほどの場所にある
旧参道入口から苔むした参道を歩いて参りたい。羅漢寺の敷地内は撮影禁止。(P・トイレあり)
6

(No.6) 古羅漢の景

 古羅漢の石仏が、一夜にして羅漢寺へ飛び移ったといわれることから山頂は
「飛来峰」とも呼ばれる。探勝道が整備されており、麓からお堂が見える天人橋へは徒歩10分ほど。毘沙門天の磨崖仏や室町時代の国東塔が見られる。(P・
トイレあり)
7

(No.7) 洞鳴峡の景

 羅漢寺から南へ2キロほど上流の洞鳴橋から見下ろすと、その名の通り音を立てて落ちる滝と、背後にはイムレ山の絶壁がそびえる。振り返ると、古羅漢の五塔峰が見える。かつてはこの滝を登れずに留まっている鮎の群が見られたとか。(Pなし)

8

(No.8) 木ノ子岳の景

 トロイデ式の火山で、中津方面からみた姿は耶馬富士と呼ばれる。明治維新の際、大分県での倒幕運動の拠点の1つとなった山。中心人物だった高橋清臣の山荘を幕府が襲撃した「木ノ子岳事件」の舞台でもある。(Pなし)
9

(No.9) 七仙岩の景

  まるで大きな7人の仙人が、思い思いの格好でたたずんでいるように並ぶ岩峰。雨後の朝夕は水蒸気が立ち昇ることから起雲洞とも呼ばれる。すぐそばの七仙橋からは蕨野の滝を見下ろせる。(Pなし)
10

(No.10) 冠石野山の景

  山国川の左岸、冠石野にそびえる総見山の東南側山頂付近に冠石と呼ばれる石がある。蕨野勝宮守が官職を辞めた際に、対岸の屋敷(現三日月神社)から冠を投げ、それが石になったという。七仙橋の先の橋を左岸へ渡ると川沿いに耶馬渓鉄道の旧冠石野駅の看板がある。この辺りはサイクリングロードにもなっていて春には桜並木となる。(Pなし)
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(No.11) 賢女ヶ岳の景

  平安の頃、下毛郡の蕨野勝宮守の死後、妻の子刀自売は貞節を守り朝廷に表彰された。屋敷(現三日月神社)の裏山は賢女ヶ岳と呼ばれるようになる。神社には三日月の形をした小さな池があり、妻は夫を思い「忘れずばたのしみ人の面影を一夜はうつせ三日月の池」と詠んでいる。対岸のサイクリングロードから賢女ヶ岳と冠石野山の両方を見られる。(Pなし)
12

(No.12) 立留りの景

 雄大な絶壁の様に、道ゆく誰もが足を止めたことから名付けられた。約200年前、一夜にして大音響を立てて崩落し今の姿に。対岸の平田城跡からの眺
めがいい。(P平田城跡駐車場・トイレあり)

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13-1

(No.13) 平田城跡の景

 ―渓やら村を隔てて、そうたいして高くも大きくもない山脈が、やっぱり柔らかな落ち着いた線で屏風でも立て廻したように静かに取り巻いているのを目にした。「これは好いですな」私も思わず声を立てた―
 田山花袋は『耶馬渓紀行』の中で、平田城跡から望む景色をこう表現している。正面に立留りの景がそびえ立ち、その右手には木ノ子岳。雄大であり、どこかのどかで優しい。それは、別名「白米城」とも呼ばれる所以となった田園風景が広がっているせいかもしれない。
 旅のお供、洋画家小杉未醒は、ここからの景色を『耶馬渓紀行』に描いている。紀行の中には、景色を楽しむ花袋ら一行も描かれており、絵巻は2人を案内した平田吉胤に贈られた。吉胤は大正時代に耶馬渓の名勝指定に尽力した地元の名士で、「馬渓翁」と称された。3階建てに改修した自宅は、客人に景観を見せもてなす場となり、多くの文化人が訪れた。その邸宅を城跡から見下ろすことができる。
 平田城は、建久年間、長岩城主の野仲重房が築城。天正16(1588)年に黒田長政の城攻めで長岩城とともに落城したと伝わる。その後、戦功のあった栗山備後利安の居城となる。黒田騒動の栗山大膳が生まれ育った城でもある。白米城とも呼ばれ、名前の由来は、この地域で米が多くとれたことや、古い地名「町丈」からなど諸説ある。昔の建物が残る城下町めぐりも楽しい。(P・トイレあり)
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(No.14) 岩洞山の景

  空に突き出た岩峰、山裾にはくり抜かれたような窟の中にお堂が見える。対岸からその姿を一目見て、吸い寄せられるように立ち寄った。
 その岩峰は、観音菩薩の立ち姿に見えることから、補陀落岩と呼ばれる。山裾には窟が2つ。1つは円通洞と呼ばれ、三日月神社、賢女ヶ岳、冠石にまつわる蕨野勝宮守と妻の子刀自売が眠っている。その麓には蕨野勝宮守が創建した久福寺がある。奈良時代に開かれたと言われる古刹である。もう1つの窟は大日如来坐像が安置されている。窟内の観音堂は大正15(1926)年に、耶馬渓鉄道のばい煙による火事で全焼し、その後再建されたものだ。堂内には色鮮やかな天井画が施されており、平田集落の名士、平田吉胤の名が記されている。平田城跡へはここから歩いて20分ほど。三日月神社から平田城跡まで、ゆかりの地を往時に思いを馳せながらつないで歩きたい。(Pなし)
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(No.15) 福土の景

 山頂の形が馬に似ているために馬台城と呼ばれた城跡がある。大内氏が豊後国境を抑える役割を持つ城だったが、氏滅亡を機に役割を終えた。木が生い茂り山麓からでは分かりづらい。県道111号沿い、芦木集落の背後にそびえる。(Pなし)
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(No.16) 跡田川筋の景

 青の洞門を過ぎ、国道212号と500号の分岐が山国川と跡田川の合流点となる。跡田川方面へ上がると、古羅漢、羅漢寺、さらに上流は鹿嵐山となる。川の中洲には耶馬渓風物館がある。夏には上流域の雲西寺や東谷地区でホタ
ルが見られる。(Pなし)

(No.66) 山国川筋の景

 中津市から上流の山国町まで、山国川沿いに奇岩や滝が見られる。それらの景は、耶馬渓橋や羅漢寺橋、馬渓橋といった石橋と調和し往時の景観を思わせる。ここでは特に、川に見られる景をあげる。
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(No.66-1) 三口大井手堰

 今から約880年前、沖代平野の水不足を解消するために人柱をたて造られた。堰の近くにある八幡鶴市神社では、人柱の霊を慰めるとともに、五穀豊穣を願う鶴市花傘鉾神事が行われる。(Pなし)
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(No.66-2) 鮎返りの滝

 かつては山国川を遡上する鮎が、この滝を上れなかったことからこう呼ばれるようになったという。雨後の水量が増えた時に訪れたい。国道212号バス停「鮎返り」近くから見下ろせる。(Pなし)
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(No.66-3) 蕨野の滝

 国道212号の七仙橋から見下ろすと、巨岩の間を勢いよく音を立てて流れる滝が見える。北には七仙岩を望み、その先の交差点そばに賢女ヶ岳の由来となった擬大領蕨野勝宮守と妻の子刀自売の屋敷跡と伝わる三日月神社があ
る。(Pなし)

本耶馬渓エリアMap

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