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知事からのメッセージ 風紋 農業用水路を拓いた偉人たち

印刷ページの表示 ページ番号:0002086246 更新日:2020年2月20日更新

農業用水路を拓いた偉人たち

大分県知事 広瀬勝貞

 アフガニスタンでテロリストの手にかかった中村 哲さんのことを思うとなんとも気持ちが滅入ってしまいます。戦乱で荒廃しきった国の人々を救おうと医療活動を始めたのですが、それ以前に、人々が日々の食事に困らず、健康に暮らすことができるようにしなければならない、そのためには砂漠に水を引いて緑の畑に変えることだ、と日本の昔からのやり方に倣って灌がいに取り組みました。悲報とともにテレビに流れた、中村さんが造った農業用水路を利用して耕作された畑で金色の麦の穂が風にたなびく様子を人々が嬉しそうに眺めている姿は何よりも中村さんの偉業を語ってくれます。中村さんに励まされ、自ら国造りに取り組む彼の地の人々が、実は中村さんを駆り立て背中を押してくれたのではないでしょうか。
 日本では、昔から人々のくらしを豊かにしようと、川やため池から水を引いて、農業用水路と田畑づくりが盛んに行われたようです。特に大分県は、江戸時代8藩7領に別れて互いに善政?を競ったものか、各地で盛んに行われたようです。当時は、農業用水路は民の資金と技術と労働で行うのが原則だったようですが、それでも、この時代大分県だけで一説では約50の井路の開発が行われたそうです。何とも民の農業に対する強いこだわりと力を感じます。
 今年1月中旬ですが、江戸時代から工事と中断を繰り返して120年かけてようやく出来上がった宇佐市の広瀬井路通水150年の感謝の集いがありました。広瀬井路の名前は取水口が津房川の広瀬地区だったからそう呼ばれているのだそうですが、トンネルと水路橋の続く難工事で、着工から100年以上を経た5回目の工事でようやく通水できたそうです。今でも約600ヘクタールの田畑を潤し、多くの人に恩恵をもたらしています。この5回目の工事を興し、とうとうやり遂げたのは宇佐の人、南一郎平で、彼はこの後、殖産興業を掲げる明治政府に召されて安積、那須、琵琶湖の3つの大疎水事業をやり遂げ、「日本疎水の父」と言われているそうです。恥ずかしながら私も、最近知った次第。
 農業用水の確保は昔だけの話ではありません。今現在、竹田市荻町や菅生等に水を引くため、熊本県産山村に大蘇ダムが造られています。こちらの方も、昭和54年着工ですから、もう40年になります。強力な建設機械があり、ダイナマイトがある現代でもこれだけの時間がかかっていますから、江戸時代ならとても出来なかったのかもしれません。この場所は、阿蘇山の火砕流が堆積した地盤であちこちに大きな亀裂があるという具合で水を通しやすく、予定を大幅に遅れてしまいました。親子二代にわたって水を待っている人も多く、私が一番心配したのは、「もう待てない」といって農業・農村を捨ててしまうのではないかということでした。しかし、農業をする方は心構えが違うといいますか、大蘇ダムの水を待ち農業に対する夢を持ち続けてくれました。この人たちの夢がとうとう大蘇ダムを完成まで引っ張ってくれました。お陰で大蘇ダムもこの4月には竹田、阿蘇約1,000ヘクタールに本格通水が始まります。

~県政だより新時代おおいたvol.129 2020年3月発行~